韓氏オモニが掲げた「天の父母様」が偶像だと「お父様の聖霊」によってすでに暴かれ崩れる日も近い! | 聖霊のもとにーメシヤの涙

聖霊のもとにーメシヤの涙

心の中に神様が入ってこられ、いらっしゃれば心が分かります。
神様が心の中に入ってこられれば、壁も突き通して見ることができ、
じっと座りながら何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。

先回記事末部より

 

聖神とは聖霊と同じ意味です。二代王様も質疑応答で、同じだと答えています。また、二代王様が「聖霊は女性ではない」と語られたのを、ヨナ様が図に書き表した時に、聖霊のことを聖神と書き記しました。

 

この原理原本に書かれている内容を、まずは理解していただいた土台の上で、明日の記事で、「聖霊」について真のお父様が「女性」であると語られ、原理講論のキリスト論でも、聖霊は「霊的な真の母」と記されています。

 

イエス様は「父と子と聖霊の三位一体」のキリストでした。真のお父様は「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストとなりました。なにが違うのかと言えば、神様と真のお父様が四大心情圏を成就し、真の愛を体恤完成させた霊的三位一体なのです。つまり、「聖霊」は神様が真の愛を体恤完成させる前の呼び方であり、「お父様の聖霊」とは真の愛の働きそのものとして、息子娘に臨む聖霊となったということなのです。

 

つまり、夜の神様が構想理想に掲げた、究極の真理による真の愛の関係性を、真の父母として成就してこそ、初めて「真理の御霊」として発動した聖霊こそが、「お父様の聖霊」なのです。

 

ですから、カインアベルを勝利し、「聖父・聖子・聖霊の三位一体」のキリストとしての真のお父様を迎えることができた二代王様だからこそ、真理の御霊に導かれて「お父様の聖霊」を証しすることができたのです。

 

それでは、今日の記事で引用した内容を土台にして、真のお父様が何ゆえに「聖霊」「女性」と表現し、「霊的真の母」として摂理を進めてきたのかを、次回の記事で明らかにします。

 

*****

 

私たち祝福家庭は原理講論においても真のお父様のみ言においても、「聖霊」について「女性神」であり、「霊的な真の母」であると学んできました。原理講論から一例だけ取り上げます。

 

第七章 キリスト論 第三節 堕落人間とイエス(一)重生論

 このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては、イエスの前に新婦として立つことができない。また、聖霊は慰労と感動の働きをなさるのであり(コリントⅠ一二・3)、エバが犯した罪を蕩減復帰されるので、罪の悔い改めの業をしなければならないのである。さらに、イエスは男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、業(役事)をなさるのである。

 

この原理講論の解説に、「聖霊は女性神である」という解説と共に、「聖霊を受けなくてはイエスの前に新婦として立つことができない。」と教えています。この「新婦」とは女性ばかりを指すのではなく、男性も含めて「新婦」と表現している事は、キリスト教の教えから見れば理解できるでしょう。

 

原理講論の他の部分にも、イエス・キリストを信じる男性女性を意味する「新婦」という表現が出てきます。

 

第4章 メシヤの降臨とその再臨の目的 第一節 十字架による救いの摂理

 イエス以後今日に至るまで、あらゆる信徒たちは、イエスは十字架の死の道を行かれるために、この世に降臨されたとばかり考えていた。しかし、これは、イエスがメシヤとして来られた根本目的を知らず、霊的救いがイエスの帯びてこられた使命の全部であるかのように誤解していたからである。生きてみ旨を完成するために降臨されたのにもかかわらず、ユダヤ人の不信によって、願わざる十字架の道を行かれたイエスの悲痛な心情を晴らし、彼のみ旨に協力する新婦が、もし地上に現れなければ、イエスはいったいだれと共にそのみ旨を完成しようとして再臨されるであろうか。「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ一八・8)と言われたイエスのみ言は、まさしくこのような人間の無知を予想されて慨嘆されたみ言であった。ここで我々は、聖書を中心として、イエスはあくまでも死ぬために降臨されたのではなかったという事実を明らかにしたが、霊交によって、イエスに直接聞いてみれば、一層明白にこの事実を知ることができる。 もしも、自分が霊通できないならば、他人の証を通じてでも、正しい信仰をもって初めて、終末において、メシヤを迎えることができる新婦の資格を備えることができるのである。 

 

このようにイエス様をキリストとして信じる男女を、ともに「新婦」と呼ぶことは、キリスト教において、「教会」そのものを「花嫁」としてイエス様が愛を注ぐことを理解していくと、その本質が見えてくるようになります。

 

エペソ人への手紙 5章25節~33節

 5:25夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。 5:26キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 5:27また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。 5:28それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。 5:29自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。 5:30わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。 5:31「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。 5:32この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。 5:33いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。

 

この箇所は、夫婦の愛について語られているところですが、このなかで、使徒パウロは「この奥義は偉大であり、キリストと教会とをさしている。」と書いています。つまり、結婚した夫婦愛の関係の中に、キリストと教会との関係が反映されているのです。教会はキリストの花嫁であり、キリストは教会の花婿として教会を愛してくださっていると言うことを訴えている聖句なのです。

 

そこから、教会に集う信徒の男性も女性も、花婿であるキリストに対して花嫁であり、新婦であると見ていることが分かります。この事に対して、なぜ、男性も女性も新婦と呼ばれるのかについて、真のお父様は原理原本に的確に示しています。

 

また、黙示録21章の聖句から、「聖なる都エルサレム」が「子羊の妻なる花嫁」と示している部分を引用します。

 

ヨハネの黙示録 21章

21:1わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。 21:2また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 

21:9最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。 21:10この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。

 

ここで聖都エルサレムについて「小羊の妻である花嫁」と記されていることになりますが、やはり比喩と象徴で表現されているのであって、現実の都市や地域のことではありません。キリストの血によって洗われ、潔められ、キリストの再臨を最後まで待ち忍んで全うした信仰者達の群れを、「聖なる都エルサレム」と比喩しているわけです。

 

つまり、花嫁と呼ばれた教会や聖都は、イエス様をキリストとして受け入れ聖霊が臨んだ男女の信徒であり、新婦と呼ばれる信徒たちの群れのことなのです。

 

ここで真のお父様が原理原本で解説した、新婦についての解釈を確認すれば、統一原理と「夜の神様昼の神様」を理解する方には、目の前が開かれるように「新婦」の意味が腑に落ちるのではないかと思います。

 

  **第二章 第三節 イエスの十字架勝利と復活および再臨の根本意義 281p**

 

(二)誰よりもイエスを愛することの根本意義

 

(前半略)

 

 このように天の愛を求めていこうとするがゆえに、サタンは精極的に以前の路程を守るため、家族を通して対立するように工作を始めるのである。つまり人間を中心に神とサタンが敵対するため、「家の者が、その人の敵となるであろう」(マタイ福音書10章36節)と言われたように、家族が直接の抵抗者となる基本原因がここにある。

 

 しかし、それを問題とせず、十字架を背負うことになるとしても、最後まで生命を尽くして勝利しなければならず、人生の根本義務的関係を打開しなければならない。このような根本的意義のある宣言だったのである。

 

 このような信仰観をもって目的を達成する信仰生活者が何人いるだろうか。伝えるイエスの心情と受ける人間の責任的使命が一つにならなければならないが、その世界がいつ始まるのかと待ち望んでいたイエスは、その果たされない責任的使命に対して、どれほど悲しく思われただろうか。ゆえに我々をして、最終的勝利の十字架路程を成就させんとするみ旨を思い、サタンを滅ぼすことにおいていかなる十字架も意に介さずに前進する者だけがイエスの弟子になるのである。 

 

 そして、次には新婦にならなければならないため、イエスに対する端的な愛を各自が所有し、天の生命を繁殖すべき責任がある。このような使命を円満に完成することを期待するがゆえに、イエスはこのような社会的に矛盾する発表をしたのであり、イエスの愛に対する宣布にはこのような根本意義があったのである。

 

  **引用終了**

 

男女ともに信徒を「新婦」と見ることを理解するにおいて、何が重要かと言えば、次の一文です。

 

「新婦にならなければならないため、イエスに対する端的(はっきりしているさま)な愛を各自が所有し、天の生命を繁殖すべき責任がある。」

 

キリストに対して「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」の心情で結ばれたならば、そこから新しい信徒を霊的に誕生させるための伝道路程が始まるという事なのです。その意味で、男性も霊的生命を産む「新婦」としての責任を賜るようになるという事です。

 

つまり、教会においても、新天新地の聖都(天一国)においても、キリストと一体となってアベルとして立ったならば、カイン圏を拡大展開していく責任を賜ったというのです。

 

さてそれでは、アベルカインが勝利していくためには母子協助が立たなければなりません。統一教会もまた、真のお父様に対して花嫁であるはずであり、聖都エルサレム・・・、つまり今現れている天一国も、真のお父様の花嫁という事になります。「子羊の妻なる花嫁」とは、三代王権のもとにある王王妃達のことになります。

 

この記事の内容を踏まえて、次回の記事で、真のお父様は何ゆえに「聖霊」「女性神」と呼び、「霊的な真の母」と称したのかを説明していきます。

 

このことが理解され真実が展開されるようになれば、韓氏オモニが掲げた「天の父母様」虚像偶像だと、「お父様の聖霊」によって暴かれ崩れる日は近くなるのです!

 

 

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