先日、アップされたZhan Zhan のふたつの動画。

どちらも、とてもすてきです。

 

まずは、ローマとパリの旅の映像。

 

 

 

 

イタリアには行ったことがないので、映像の中のローマの風景は本や映画で知るだけの場所ですが、パリには幾度か行ったことがあり、Zhan Zhan が佇む風景の一つひとつにリアルな実感がありました。

 

彼のような人には、こうした時間が必要なのだろうと、あらためて感じました。

デザイナーであった Zhan Zhan がつくるものは、つねに“思いつき”ではなく、意図ある“アイデア”。

 

クリエイティブはオリジナリティが命。作り手が一から考案するもの。

それ故、表現の糧となるインプットの時間を持つことは、とても大切。

 

でも、これは、私の勝手な解釈。非日常の旅先で、博物館や書店を巡ったことを思い出し、ただ単に、自分の質に重ねているだけかもしれません。

 

 

 

 

 

初めて訪れた外国の街がパリ。友人が留学していたので、そこに転がり込みました。

彼女に「個人旅行なのだから、ちゃんとした格好で来てね」と言われ、ツーピースに7cmヒールのパンプスで、シャルル・ド・ゴールに降り立ちました。

 

腕に抱えたオーバーは母のおさがり。小さな襟にはミンクの毛皮もついていました。

ニュートラやハマトラが流行っていた時代、そのようない装いも、それほどかしこまったものではありませんでした。昔の服装は窮屈でしたね。

 

空港はスト中。閑散としていて、紙屑やゴミだらけ。

大きなシェパードが三越ライオンのごとく座っていました。

いくらなんでも、入国審査の係員はいたと思うのですが、シェパードのことしか記憶がありません。

 

成田発の飛行機は季節のせいか空席が目立っていました。

アンカレッジ経由でしたので、厳密に言えば、初めての外国はアラスカ。

トランジット休憩のみの上陸でした。

 

この旅で、間近に見たエッフェル塔のうつくしさに魅了されました。

 

建設時の19世紀末、多くの芸術家から「醜悪」「無粋」と評されたことを知っていたので、東京タワーのような実用的な鉄塔を想像していました。

百聞は一見に如かず。この目で見たエッフェル塔は、マニュファクチュアを感じさせる美的な建造物でした。

 

ロンドンのビッグベン、日本の富士山、ランドマークになるものには、やはり理由がありますね。

 

ちなみに、塔に上ったことはありません。

高所が苦手なこともありますが、上ってしまうと、その姿が見えないからです。

 

それくらいエッフェル塔が大好きになりました。

友の家は、エッフェル塔のあるシャン・ド・マルスの近くにありました。

 

Zhan Zhan のパリの映像にも、たくさんエッフェル塔が映っています。

それで、何十年も前に旅した冬のパリの街を、昨日のことのように思い出したのかもしれません。

 

凍るように張り詰めた空気、どんよりと垂れ込める低い空。

朝はいつまでも暗いまま、午後はすぐに日が暮れる。

石畳の下は地球の芯まで、冷たい岩板なのではないかと思うほど、寒い。

 

だから、カフェのあたたかなココアがおいしかった。

街角で、不意にどこからともなく流れてくる葉巻の匂い。

クロワッサン、チョコレート、そして、フラン。

 

ケーキは箱ではなく、包装紙をピラミッド型に包んでくれたことなど、こまごました思い出まで一気によみがえりました。

 

「ちゃんとした格好」の意味はすぐにわかりました。

 

それでも、マドレーヌ寺院近くのカフェでは注文を受けてくれず、地下鉄で空いた席に座ったら、隣に座っていた人がすっと立ち去る。

近所のこどもが私を描けば、迷うことなく黄色いクレヨンで肌を塗る。

そして、「右の目で、左の目が見えるの?」と訊かれました。

 

まさに、『テルマエ・ロマエ』の「平たい顔族」の私は、とても奇異に見えたのでしょうね。

「切れ長の目」と訳せばよいものを、友は「裂けた目」と訳し、「いつもそう言われる」と、怒っていました。

 

まだまだ、そういう時代でした。

でも、親切に接してくれる人のほうが多かったと記憶しています。

 

日頃、過去を振り返ることがあまりないタイプなので、アルバムを捲ることもほとんどありません。

そもそも、アルバムにファイルしてある写真は、資料といったものばかりで、旅の風景写真はごく僅か。

そのほとんどにエッフェル塔が写っていました。

 

上の猫がいる窓の写真も、ガラスに映ったエッフェル塔を写したもの。

これは2度目のパリ。この時はパリで年越し、1989年の新年を迎えました。

その年、エッフェル塔は100歳!

 

日本では元号が変わり、テレビニュースで知った新しい元号は「エイゼイ」。

どんな文字かしらと友と漢字を当て合っていたら、翌日「平成」の文字を掲げる映像が流れ、なるほど、フランス語はHを発音しないから、「エイゼイ」だったのね、と納得しました。

 

海外の方は、日本語のH、「ハ」「ヒ」「へ」「ホ」の発音が難しいようですね。

『無名』のYiboくんの日本語、とてもじょうずと思いましたが、やはりH、とくに「ヒ」が難しそうに聞こえました。

 

私が聞いたシーンだけでも、「人込み」「ひと目で」「兵力配備図」。

こんなにHがあって、大変だったでしょう。

「兵力配備図」なんて、日本人でも難しい発音です。

 

それでも、ちゃんと耳だけで意味が通じる発音でしたから、私は立派な合格点と思います。

 

 

 

 

当時のカメラは、もちろん、フィルム。

これらは、後に写真をスキャンしたもので、どれもぼやけています。

 

学生時代は旅費の安い冬休みや春休みに出かけていたため、私は冬のパリしか知りません。

凍るような石畳を、カツカツと靴音を鳴らし、19世紀末に実在していた或る人の足跡を追って、100年前のパリを探し歩きました。

 

辿った場所のほとんどが、その当時は、100年前のまま存在していました。

それは衝撃であり、感動であり…。

 

当然、ルーブルにガラスのピラミッドは、まだ、ありません。

Yiboくんどころか、Zhan Zhan も生まれていない時代です。

 

最後にパリを訪れたのは1997年。

5月だったので、Yiboくんは、まだ生まれていません。

 

社会人になってからはゴールデンウィークに出かけるしかなくなり、行先もロンドンに変わりました。

この年はユーロスターに乗りたくて、ロンドンに荷物を置いて2泊3日パリへ。

冬以外の季節にパリを訪れたのはこの時だけです。

 

当時の50フラン札はサン=テグジュペリ。

星の王子さまのイラスト入りでした。

ユーロ導入前のフランスフラン紙幣。

今も大切にとってあります。

 

 

 

 

2000年代になり、公私ともに余裕がなくなり、海外旅行にも行きませんでした。

十数年後、再び旅するようになりましたが、私はユーロを一度も使ったことがありません。

20代、30代の旅と比べると、年齢に見合った贅沢な旅になりましたし、目的地も自然や世界遺産といった変わった地ばかり。

それでも、若い頃の旅で受けた感動や感銘のほうが、何倍も大きい。

 

私自身は20代半ばから30代にかけて、いちばん感性の貯蓄ができたように思います。

10代は感受性が鋭くても、自己の確立という面であやふやなところがありましたから。

 

旅だけでなく、本、映画、演劇、美術、音楽 etc.…と、気の赴くまま、詰め込みたいものをすべて詰め込むことができた年代です。

 

現在のYiboくんや Zhan Zhan の年頃ですね。

 

彼らも貪欲に働き、貪欲にインプットしています。

私とは比べようもないほどの量と密度。

凡人には耐え難いことも、破格の彼らは耐え抜く力をもっていると信じています。

 

それでも、機械ではない、心を持つ人間。

 

ふたりには、奏者と作曲家といったような違いを感じますが、どちらも創作に携わるアーティストであり、多大なファンを持つアイドルでもある。

共通の喜びや苦労を理解し、支え合うことができて、心強いでしょう。

 

そして、もうひとつの映像。「Esquire」の Zhan Zhan。

 

短い映像ですが、この Zhan Zhan の表情、とても好き。

雑誌は買わない主義ですが、昨秋の Yiboくんの「GQ」の時と同じく、躊躇うことなくポチってしまいました。

 

 

 

 

Zhan Zhan は表情ゆたかな人。

あのタイのファンミーティングの時の1,000万ドルの笑顔や、先日のミラノでのたおやかな表情など、花が綻ぶような明るさや柔らかさといった、やさしい表情をたくさん見せてくれます。

 

もちろん、実物の彼は知りません。

それでも、インタビューやドラマのBTSなどを見ると、そうした印象を裏切ることのない品性を持った人なのではないかと感じます。

 

でも、彼の本質はクリエーター。

すぐれた表現者であるけれど、根底にあるのは創作者と見受けます。

 

揺るがない“自己“があり、それを守り、表現するための強固なこだわりがあるはず。

彼はとても強く、私は「抗う」人と感じていました。

 

「抗う」という言葉は、「争う」「争いごと」を連想させるかもしれません。

この「抗う」は、自己を「貫く」、簡単に「妥協しない」といった意味です。

これはYiboくんにもあるのですが、ふたりの強さには少し違いがあるように見えます。

 

Zhan Zhan の場合は、少し言葉がきつくなりますが、抗う心。

叛骨(はんこつ)と言ってもよいかもしれません。

たおやかな Zhan Zhan の印象とは遠い形容と思います。

 

“抗う心”は創作者の必須条件で、それを剝き出しのまま生きる人もいれば、Zhan Zhan のように多面性で包んでしまう人もいます。

彼が進んだ道がファインアートではなく応用芸術、デザインで、その世界でも結果を出していたのですから、後者であって当然かもしれません。

 

処世ということで言えば、後者のほうが生きやすいでしょう。

けれど、その代償として、そうしたオブラートの、それも一部分だけを切り取り、それが実像であるかのように、誤解されることも多々ある。

 

また、自己との対峙で、自身の多面に迷うこともあるかもしれません。

これは、創作というものが自己探求であるかぎり逃れられない。

 

無責任な観客としては、「たくさん葛藤してほしい」と思ってしまいます。

そうして表出される彼の表現世界を、もっと見たいと欲深く願うのですから。

 

芸術家が時にサクリファイスと言われるのも、こうした理由です。

だから、個として在る時、自分でも捉えきれない多面すべてを、丸ごとそのまま受け容れてくれる存在があることは、とても大きい。

 

「战哥没有丑的时候(战哥は醜い時がない)」、つまり、「Zhan Zhan はどんな時でもきれい」

こんなことを、しれっと言ってくれる人、しかも、本当のことしか言わない人。

その存在は、創作者の魂でもある“抗う心”を守ってくれるのではないかと。

 

Yiboくんとの『陳情令』BTSで、Zhan Zhan が時折見せる「我(が)」。

“抗う心”を垣間見る瞬間。

 

これがあっての Xiao Zhan。

これがあっての1,000万ドルの笑顔。

「Esquire」が届いたら、Zhan Zhan が語る言葉を、じっくり読みたいと思います。

 

* * *

 

少し前のことになりますが、遠方に住む学生時代の友人と、4年ぶりに会いました。

 

私のお気に入りのカフェ。CAFE de la PRESSE

かつて横浜でよく見られたような古い石造りの洋館は、なつかしく、とても心地よい空間。

1階のアルテリーベのカフェなので、軽食もおいしいです。

 

4年ぶりというのに、先週も会っていたかのように会話が始まる。

昔は手紙のやりとりでしたが、今はメールで、まめに連絡がとれるので、よりブランクを感じません。

 

それこそ自己の確立もいまだ途上という時代を共有した友。

譲れぬ自己を持てあましながらも、抗っていたことを知る仲。安心して本音を語り合うことができます。

 

そして、おたがいに過去を振り返らないタイプ。

思い出話はほとんどせず、現在の話題で盛り上がる。

丸くなった自分たちを笑うことはあっても、おたがいに未だ牙を持っていることを知っている。

 

たのしくて、たのしくて、涙を流すほど笑い転げました。

こんなに笑ったのはひさしぶり。

 

メールやリモートでは、どんなにたのしい話題でも、涙を流して笑うことはなかった。

会って話すということは、こういうことと、あらためて感じました。

 

芸術や文学の話だけでなく、もちろん、私はYiboくんと Zhan Zhan を語り、彼女は藤井風くんを語る。

彼女が風くんを見つけたのは、ずっとずっと以前のこと。Yiboくんで言えば、白牡丹からのファンという感じです。

 

この歳になって、ともに97年生まれの若者に夢中になるとは…。

10代の自分たちに教えたら、きっと驚くわね! と。

 

ここまで書いたところで、いちばん若い叔父から電話が。

 

「きみが書いたパリの文章の冊子が見つからなくて、ちょっと読みたいと思ったんだけど、余分ある?」と。

あまりの偶然で、びっくりしました。

「全部、処分してしまった」と答えて、あきれられました。

 

他者が書いたものや自分で集めた資料は、大事にとってありますが、稚拙な自作はさっさと破棄。

アナログの時代ですから、すべて体積があります。

収納場所もかぎられ、優先順位の低いものは致し方ありません。

 

過去を振り返ることは滅多にないけれど、思い出がないわけではないのです。