旧暦元禄15年12月14日吉良邸に討ち入った赤穂浪士。
現代の暦(太陽暦)でいうと1703年1月30日。
先日、忠臣蔵の記事を書きましたところ、
ある方から
赤穂浪士と陰陽師の関連を教えてもらいました。
陰陽師といえば有名なのが
『安倍晴明』
平安時代京において陰陽道・天文道を用い
都の異変を察知し天皇家から信頼を受けていた(?)
平安時代というのは西暦794-1192年で
晴明は延喜21年1月11日(921年2月21日)に生まれ
寛弘2年9月26日(1005年10月31日)に亡くなっています。
当時としては長命ですね。
陰陽師には京都系統の「都陰陽師」と、
播磨の国の「播磨陰陽師」の二種類の系統があるそうです。
安倍晴明は都陰陽師というわけですね。
その晴明が一時期、
播磨守として播磨陰陽師をまとめていた時代があるそうです。
播磨の国は、
元々の陰陽師達のふるさとと言われています。
都で活躍していた陰陽師たちは
応仁の乱(1467年)〜文明9年(1477年)が起こると
京の都から播磨に戻ります。
陰陽師達の子孫に多くの赤穂浪士がいたと言われております。
僅か四十七人での討ち入り成功には
陰陽師の知恵で戦略を立てたから?
播磨(はりま)は今の兵庫県西南部に位置して
播州(ばんしゅう)とも呼ばれます。
播州は江戸時代14の藩が置かれていました、
その一つが赤穂藩です。
なのでよく映画などで赤穂浪士を
播州赤穂の浪人と称されるわけですね。
と、本日も誰トク?の記事でした