シリーズ東京の謎の城③ 川辺堀之内の城館を疑う | 星ヶ嶺、斬られて候

シリーズ東京の謎の城③ 川辺堀之内の城館を疑う

東京都日野市の川辺堀之内の城館が認知されたのは比較的最近のことといってよい。

そもそも古来の記録や伝承の一切ない城跡であり、「日本城郭大系」にも掲載されていませんが、その後、郷土史家の間などで城館ではないかとささやかれていた存在。

平成7年に「日野市ふるさと博物館紀要」の中の‘特集・日野の中世城館を探る‘で取り上げられてようやく日の目を見ることとなりました。

 

場所は浅川北岸の日野市川辺堀之内の台地上であり、北に隣接するゴルフ練習場がよい目印となります。

 

 

<台地下より見た川辺堀之内の城館。周辺では工事が進む>

 

 

城址とされる地点は河岸段丘の台地が南に張り出した場所で、北辺に土塁が遺存しています。

現存の土塁の状況から北の塁線は北東角が北に突出して横矢掛かりを利かせていたと推測されているのだが・・・。

 

さて、私がこの城を初めて訪れたのはもう10年近く前になりませうか―。

その時、私は横矢を利かしていたとされる北東の土塁がどうも土塁らしからぬと違和感を抱いたと共に、その西の空堀を形成しているように見える土塁に関しても近代以降の盛り土らしいとの情報を得ており、なんとなく引っかかるものを感じていました(盛り土の件は当時の忘備録に記載したものの記録の不備から話の出所がわからなくなってしまった)。

 

 

<近代の盛り土の疑いがある北西の土塁>

 

 

かれこれ過ごすうちに昨年、日野市の別の城址を訪ねる機会があり、ついでに図書館に立ち寄った際、川辺堀之内の城館に関連して一つの発見がありました。

この城址を含む一帯は吹上遺跡として登録されており、平成25年度に城址近くで行われた発掘調査の報告書があったのですが、それによると調査区内から数基の古墳が確認されたという。

写真で見ると古墳の丸い周壕がひしめいており、かつて台地上には古墳群が広がっていたものと推測されるのです。

 

そこで思いついたのが、城の北東のマウントは実は古墳ではないのか―といふこと。

改めて川辺堀之内の城館を訪ね、マウントを確認すると、全体に勾配は緩やかで、墓地のある南西や東及び南は近年削った痕跡が明らかでありました。

きれいな円形になる訳ではありませんが、従来の説の如く、L字の土塁にはどうしても見えてこないのです。

また、「日野市ふるさと博物館紀要」はこのマウントの植生についても言及していますが、それに比して北西の土塁の植生はさほど古いものには見えませんし、南の台地際の斜面も自然地形のままの緩やかさで、城館らしくはない。

北の塁線を形成する土塁が古墳と近代の盛り土であればここを城址とする根拠が大きく揺らぐことになるのです。

 

 

<北東の土塁(?)を削って造られた墓地>

 

 

<同じく東面。緩やかな斜面が削られ、木の根が露出している>

 

 

他方、「堀之内」という地名を城と結びつける向きもあるかもしれませんが、これは恐らく南の台地下、浅川流域の村域に縦横に用水路が巡る様を活写したものと思われ、古く台地上は原村、林際と呼ばれておりました。

 

さらに明治初年の地籍図も確認してみると、城址部分はもし土塁や堀があればそれに規制されるべき地割にそれらしき傾向は認められません。

 

 

<城館の見取り図と明治初年の地割>

 

 

台地上には周囲の地割から浮いた小区画が複数あり、あるいは古墳の痕跡かと思はれる。

かつて原村内には平塚なる地名があったさうで、古墳との関わりを想起させます。

 

城址の東を見やると土塁を思わせる細長い地割がL字型にあり、その内部の地割は付近の他所に比べかなり広い(近代初頭時点では畑地)。

先に紹介した吹上遺跡の発掘調査では調査区の南から中世のものと考えられる空堀が検出されており、これを川辺堀之内の城館と関連付ける向きがあるのですが、その位置はどうも細長区画の南に沿う場所であり、ことによると件の区画を囲んで土塁と空堀が巡っていたのかもしれません。

 

永禄10年(1567)の「高幡不動座敷次第覚書」によると当時、堀之内村(原文はほかの内村)は高麗左衛門の知行するところであったようで、川辺堀之内の城館の城主を左衛門とする説がありますが、一方、中世には川辺十騎衆の存在が知られており、川辺堀之内村を含む浅川北岸一帯には小土豪が割拠していたらしいのです。

例えば原村台地下の川辺堀之内村の中核部には今も同姓の旧家が固まって所在する区画があったり、川辺堀之内西方の上田地区にはやはり十騎衆に数えられる旧家が隣接していて、近世の絵図ではそれらを囲んで土塁と堀が描かれていたり―(現在も面影残る)。

同絵図には他にも2区画の土塁囲みの屋敷が描かれており、どうやら中世の川辺堀之内周辺には点々と小土豪の館が連なる景観があったと考えられます。

 

 

  

<城館(一番左の赤)周辺の地籍図。茶は斜面、赤は城館・屋敷の推定地、緑がL字の土塁?、ピンクは古墳?>

 

 

以上、川辺堀之内の城館に関して疑義を申し立ててまいりましたが、本論は決して城館も存在を否定するものではありません。

北の土塁上の高まりについて古墳や盛り土では、と疑問を述べてきたもののこれを裏付けるものはなく、あくまで私の推論―。

よしんば北東のマウントが古墳としても、古墳を土塁や見張り台として転用した例は関東でも少なからず見られます。

何よりこの地は浅川を眼下に睨みつつ、近傍の高幡城、平山城を望見できるという城館の好適地であるということです。

これらを踏まえ、城館の存在や構造について改めて慎重に再検討されるべきでありませう。

 

周辺では区画整理に伴い年々歳々、発掘調査が行われていますが、その進展によっても新しい事実が判明するかもしれません。

 

 

 

<現在の城館内。明治初期には畑だったが、今は使われていない>

 

 

<城館から見た南東の高幡城>