宮沢遺跡(宮城県古川市)
前回の守山城は発掘調査によってその重要性が認められた城でしたが、今回の宮沢遺跡も発掘によって古代の城址であることがわかり、国指定史跡にまでなった所です。
宮沢遺跡と言ふのは宮城県は古川市街の北西にありまして、整備された箇所(遺跡の北西端付近)の中央を東北自動車が貫いています(冒頭写真は整備地区―愛宕山の西側)。
本来は縄文~弥生時代の遺跡だと思われていたこの遺跡は、自動車道建設に伴い昭和49年から調査が開始され、結果、予想に反して極めて大規模な北辺城柵であることが判明したのです。
古代の北辺城柵とは大和王権による東北支配のために築かれたもので、その代表たるものは多賀城、胆沢城、秋田城・・・など。
当時の東北は大和王権の支配の外にあった蝦夷(エミシ)の土地であり、王権はこれを自らの体制下に組み込むべく、大化年間(645~50)、越の国(新潟県)に沼垂柵、磐舟柵を築いて以降、次第に北進して東北における支配域を拡大してゆきます。
こうした城柵は多賀城が陸奥国府、秋田城が出羽国府となったやうに政庁としての機能が強く、その基本構造とは政庁のある内郭とその周囲を大きく囲む外郭からなるもので、いずれも築地塀や土塁を防壁としていました。
この宮沢遺跡の外郭は東西1400m、南北850mと推定され、現在知られている北辺城柵の中でも最大級のもので、中央付近から築地の痕も見つかっていますが、外郭内は丘陵を包括して起伏に富んだ地形であり、なお政庁の確定には至っていません。
外郭の中でも比較的よく残っているのは北辺で、北西端付近の糠塚山、愛宕山付近には築地や土塁の址、それに伴う大溝が二重、三重に残っています。
東北自動車道によって分断された愛宕山は特に発掘が重点的に行われた地区で、今日はよく整備され、土塁状に変貌した2条の築地址や倉庫と見られる掘立柱建物の跡を見ることが出来ます。
外郭線上からは櫓と見られる建物跡も発見されていますが、発掘調査がなされた箇所はまだまだ遺跡のほんの一部―。
この遺跡の正体については、宝亀11年(780)に築城が開始された覚鱉(かくべつ)城、あるいは長岡郡衙、玉造柵、新田柵等の説が挙がっていますが、なお確定はしておりません。
<愛宕山の南麓。倉庫が並んでいたと思われる>
<愛宕山西地区。斜面を這う2条の築地跡>