なんか久々だな


自分自身を通したスピリチュアルの話をするの


いつもね


知らないことばかりだから


どういうことなんだろうなっていろんな人の話を聞いたの


自ら聞いたものもあれば何か勝手に入ってきたものもあるし


その経緯は様々なんだけどね


ただ私自身が


スピリチュアルを嫌いになった理由は


とどのつまり他人の発信(^_^;)


知らないことを知るために知ろうとした結果


逆に嫌になってしまった


誰かのせいにするわけではないんだけど


自分が選択したことではある


ただ結果的に見たら他人の話だから


その話のせいっていう


でも誰かが悪いってわけじゃないんだよ


嫌になったのは私自身の問題だから


その話を聞いて平気な人もいるし


けど私は平気じゃなかった


ただそれだけのこと


他人(ひと)の話を聞いていたらスピリチュアルが嫌いになってしまった


それと同じように見えない存在たちも大っ嫌いになった


一言で言うとめんどくさい(関わりたくない)


本当にこれに尽きる


ただでさえ人付き合いも結構疲れるのに


目に見えない存在なんて余計に得体が知らないから尚更疲れる


それに目に見えない存在からメッセージを受け取って発信している人にも


何故ならその人自身についても知らないし


その上その人がどういう状態で話しているのかもこちらからでは分からない


エネルギー状態を鑑定やどんな存在なのか識別できるならまた話は変わってくるのかもしれないけど


こちら側からすると


情報の精査をするのがすごい難しい


なんでそういう話をしているのかということ


ここについての確認のしようがないから


様々な理由を考えてみる


そうなった時に本当に疲れるの


素直に受け取りたいけれど


これをそのまま受け取っていいのかな?と首を傾げるような内容もあったり


結構意味がよく分からない内容も多くて


なんでそんなことを人類に伝えてくるのか


どうしてこんなに偏るんだろうって印象も結構あって


本当に頭を悩ます


何故なら人間に伝えている相手は見えない存在なんだもの


失礼かもしれないけど本当にその存在はまともな存在なのか


名前だけはとある存在だけど実は違う存在ということも十分にありえるし


そういうこととかを考えると


人付き合い以上に疲れる


それに加えて内容が物騒だったりすると


もう何なの😨ってなるわけで


そうなると次第に嫌になってくる


目に見えない世界ってもっと優しいものだと思ってたのに


こんなだったんだ?って期待していたわけではないけど残念感と落胆


私自身は何も知らないから色んな人の話をベースにおそらくそういうことなんだろうなっていう解釈で


誰かの話で知ったことを基盤にして話を進めている


全ての話を網羅してるわけではないけど


人様が目に見えない存在から受け取って話していることを否定せずに肯定しつなげてみると


土台にあるものが結局二元性だから


そういう考え方に至るんだってなって結論になった


そうなった時にさ


私の中では嫌気が増してすごくがっかりしたの


もちろん全ての存在がそうってわけではないんだけどね


ものすごく上から目線な感じの態度に見えたら申し訳ないけど


所詮二元性の世界だからこんなもんかと


見えない存在も人のサポートに入ってるという割に


結局二元性と言うものの見方からは離れられないのかと


この在り方(二元性)からは逃れられないと言うのか、二元性の世界であってもそうではないものの見方はできないものなのか、変えることは難しいのかなと


結果的にはこの二元性という世界に引っ張られてしまう(?)


だからそういう発言に至るのかという解釈のもと


もう見えない存在にも落胆し


正直に言うと絶望感に溢れてた


なんか自分で思ってたのと違うと


宇宙には愛しかないって言うけど


これも愛なの?って首を傾げるような内容も本当にいっぱいあって


そんなの信じなくたっていいんだけど


でもそういう話が出てくるということは


きっとどこかにそういう世界線もあるわけ


それが私の中ではすごく悲しかった


ものすごくやめてほしかった


どうしてそんなことを言うんだろう?


なんでそんなことを伝えてくるんだろう?


愛しかないんじゃないっけ?と


私の中は混乱でいっぱい


何が愛なんだ?


嘘つきって思っちゃった


正直に思ったことを言うのであれば


そういうことを伝えてくる人に対しても嫌だなって思ったよ


よくこんな物騒な内容は伝えられるなとか


何でこうやって惑わすようなことを話せるんだろうとか


きちんと内容を確認してから伝えた方がいいんじゃないの?とかね


だけど1番はそういうことを伝えてくる存在に対して嫌悪感


次にそれを話す人に対して不快感を抱く


もらった言葉をそのまま伝えればそれで良いという対応


内容について何にも考えないことに呆れる


別にこれは悪口じゃないからね


何かの発信、見えない存在からの言葉だとしてもそれは情報


そういうお知らせみたいなものを人の世に広めてるわけで


それって結構責任がある仕事だと思うの


それなのにちゃんと考えてるのか分からないような雰囲気に引く


なんか無責任だなっていう印象


神様の言葉を伝えている


その自分自身に酔いしれてるのか、なんなのか


神様からもらった言葉は一言一句変えずにそのまま伝える


だけど私は思うんだよね


そういう言葉を伝える人は内容をよく精査しなければならないと


自分自身の状態もだけど


本当に自分が思っている存在と話ができているのか


それって受け取っていう内容を見てみるときっと明らかになると思うの


なんか自分や誰かにとって都合のいい言い方をしていないかとか


それこそ本当に愛というものに基づいて話されているのかとか


だから場合によっては聞き返すことだって大事だと思うの


ただ受け取って


はい、そうですか、そうですねじゃなくて


これはどういう意味なのでしょうかと


私はこういう風に解釈しました合っていますか?って


だって伝える内容の意味合いが双方できちんと合ってなければそれって本当の意味合いで伝わらないことになる


ズレてることになるし


自分が思っていたものと違った場合


これがなんだか不穏な場合は自分自身の状態をよく見る必要があるし


なんでそんな不穏なことを伝えてくるのか、そこにどういう意味があるのか


その真意を知る必要もある


一見不穏に見えるけど実はそうじゃない場合だってあるから


きちんと確認することって大事だと思う


だけどそういうことを一切せずに


ただ言葉だけをもらって、言われた通りに話す


それがどれだけ様々な人の心を揺らし悩ませるのか


本来は罪なんて一切ないけど


でも敢えて言うとしたら


やってることは罪深い


最悪でしかないよ


別に責めてるわけじゃないけど


人心を惑わすようなことをするのやめてほしいよね


そういう発信をするならもうちょっと矜持を持ったら?


そのレベルでいいの?と私なんかは思ってしまう


何も知らない人に言われたくねえよって思われるかもしれないけどね


言われたくないならちゃんとやろうよ


自信を持ってなんでそんなこと言われなくちゃいけないんだ!


と誰かに何かを言われるようなことなんてしてない!と


胸を張って否定できるように


別に誰かのことを悪く言いたいわけじゃないけどね


全員が全員そうではないよ


でもそういう人が多いなっていう印象


そして厄介なのが


そこに集まってくる人


その人たちに対しても冷ややかな目で見てしまう私が


どういうことを言われているのかよく考えもせずに


❝ありがとう❞という言葉を残して去っていく


その様が私にはゾッとして


何なんだこれはって思うようなことが本当にあちらこちらで散見される


実際にあった内容を例に出すなら


選択によって自分の人生が変わると


だからあなたはどっちの人生がいいですかという問い


私読解力がないから何を言っているのかをよく考えるの


表向きには確かにどっちの人生の方がいいかと言う問い


でも実際に聞かれていることは生きるか死ぬかを問われている


そうなった時に生きる人と死ぬ人に分かれることになる


ここについて何も思わないことが本当に私にとっては恐ろしくて


なんで自分たちのことしか考えないんだろうということと同時に


なんで片方だけが生存ルートでもう片方は命を落とすことになるの?と


だってどうなるのかなんて分からないのに


なんでもう1つの選択肢は命を落とすことになる?


しかももう決まっているかのように話す


それが本当に私は嫌で


一番嫌だったのはそうやって未来を決めつけられることなんだけども


それと同じくらい生きる方の道を選択している人が自分はそっちを選択したから大丈夫だとか、これからも安心して過ごせるとか、素敵なメッセージをありがとうと


自分のことしか考えてないこと


どうしたら他の人たちがそうならないのか


もちろんそれはその人たちの選択だし


他人がどうこういうものではないんだけど


そこに向けて何も思わないこと


それが本当にね


悲しかったし怖かった


なんか冷たく見えちゃったんだよ


全然優しくないなって思って


スピリチュアルってさ


心とかそういう大事なことを話すっていうイメージがあって


もっと優しくってあったかい世界が広がっているのかと思ったら


なんか合理的で、自分のことしか考えてないような人たちがたくさん集まっているような


そういう印象に変わった


どうやったら現実を良くして行けるのか とか


お金がたくさん入ってくるとか


別にお金自体が悪いものっていう話じゃなくて


結局自分のことがメインで


もちろん自分のことを満たしてから他人に何かをしないと自分がすり減っちゃうから


自分が一番最初に幸せになることは前提としてあると思うんだけど


それでもなんかね冷たいなっていう印象


だけど反対に誰かに何かしてもらえる


こんだけ大変なんだから余裕があるなら助けてよとか


他人頼りになっている人もいて


それもそれでまた違う意味でおかしいなって思うし


なんか変な依存をしてる人もいる


もちろん全員じゃないけど


助けてもらって当然だと思ってるし


全くもって感謝をしない


だってやってもらって当たり前だと思ってるから


そういうのも見ると余計になんだこれって思って


なんか気持ちが悪いなって思ったの


それになんか張り付いた笑顔って言葉があったりするように


そういう形だけの❝ありがとう❞がいっぱいあってそれもまた不気味で


すごく嫌になったの


ありがとうというこの言葉には高い波動が宿っているそうで


それを聞いた人たちがそれを言えば自分の波動も高くなる、結果的に波動が高いと波動が高いものを引き寄せると言うことで書いているようにも思えたし


仮に本当にありがとうと思っていたとしたらそれもそれでこの内容に対して感謝の念が湧くことが怖くて


これは何なんだろう


一体何を私は見ているのだろうかと


いつもそんなことばっか思ってた


見えない存在の話を伝える人も、そういう発信をする人から話を聞く人も双方で自分の頭でよく考えることをしない


もらった言葉をそのまま受け取る


なんかその様が異様な光景に見えて


気持ちが悪かった


誰も彼も他者の言葉に耳を向けて


その言葉の先にあるものが目に見えない存在で


見えない存在からの言葉をずっと待ってる


そしてその言葉通りに行動をする


それが私には気色悪かったの


まるで洗脳でもされているかのように見えて


なんでみんな同じことばかり言うんだろう?と


どうしてずっと同じことばかり話しているの?って


気持ちが悪いってなってしまった


無理だった


本当に無理だった


だって怖いんだもん


これを見て平気でいられなかったよ


うん。。。


だから私は見えない存在が本当に不信感を持つ対象になってしまってそれは本当にきつい


だって見えない存在から人はサポートを受けてるんでしょ?


自分のサポートについてくれている存在がいるのかどうかは確認できないけど


もしもそういうサポートがあったとして


その存在たちについて私信じられるか分からない状態になってしまっているから


これほどにキツイことってないと思うの


だって見えない世界ってさ


ある意味では人の心の拠り所になってる部分もあるじゃない


それすらも失うことになるから


何も信じられなくなりそうになる


自分のことだってなかなか信じられないのに


だけど信じられるのは自分くらいしかいなくなっちゃう


それって本当にすごく世界がぎゅっと狭くなるし


苦しく感じる


だからすごく精神的に自分のことじゃない、他人の話を聞いてのことだけどきつかった


そんなことに悩まなくたっていいんだろうけど


人の意識がどれだけ現実の世界に影響を及ぼすかっていうことを知っているから


そしてそれもまた話してるから知ってる筈なのに


なんでなんだろう?


どうして矛盾したことをするのか


だから一貫性がなくて何がしたいのか

分からない


そうやって私は何年間も懊悩し続けていた


知らないからこそ余計に悩む


そしてある時


なんでこんなものを見るのかなってずっと思ってて


どうしてそういうことに気付いちゃうんだろう?と


だってそういう話について他の人達はきっと私よりも知っている人達だと思うから


私なんてちょっと前に知ったようなもので


諸先輩方が何で気付けないんだろうと


全ての人がそうだとは限らないけれどなんとなくスピリチュアル歴長そうだったけどなぁ


そんなことを思いながら過ごしてたら


見えない存在から声をかけられることがあって


当然何者か確認したの


そうしたらまさかの私はあなたであなたは私って答えてきて


てっきり私は何々ですって言うと思ってたから


自分自身っていう回答に当時はえ?って思ったよ


その時から時々


その存在から言葉をもらうことがある


ただ私自身は一度たりともその存在から覚醒しなさいと言われたり


アセンション(次元上昇)について何か言われたことがない


(スピリチュアルの)世の中的には二極化とか多極化とか言われているけど


それについても何にも言われたことがない


自分の魂のルーツを知りなさいとか


過去世とか前世の記憶を思い出してくださいとか


そういうことも一切言われたことがない


私が聞けばもしかしたら答えてくれるかもしれないけど


基本的にはあまり答えない


いつも自分で気付くように促してくる


自分で考えるように


悩んでる時はいつも


誰かじゃなくて私がどうしたいのか


毎度、毎度、私は何を考えているのか


本当はどう思っているのか


そこをいつも言って来る


毎回そうだった


だから別にね


何かをしなさいって言われたことがない


ここに行きなさいとか


こうするといいよとか


自分自身のために何かをやれっては言われるけど


その存在からこうしろっていうのは言われたことはなくて


しかもアセンションとか本当に何も言ってないから


未だに私自身は何なんだろうなって思ってる


きっと人によってはそういうものがあるのだと思う


でも正直に言うと私にはある意味関係のない話だと思っている


これは何も言われていないからっていうよりも


自分の中にあるものとして


そこ(次元上昇)に対して何かをする必要がないと言う感じ


アセンションというこのワードを知ったからには何かしら意味があるのだろうけど


自分が自分自身に対して次元上昇をするために行動を起こすことって別にないなってなんか思う


これは私がスピリチュアルについて知らない人だから思うことなのかもしれないけれど(今はちょっとは知っちゃったけどね)


そもそもスピリチュアルに関係のある人たちだけが次元上昇について何かをしなきゃいけないとか


そういうことを知ってる人だけがアセンションできるとか


アセンションについて知っている人たちだけで何かをしようって考えてることがもしもあるのであれば


そういう考え方がそもそもどうなんだろうって思うわけ


次元上昇があることを知っている


だけど知らない人はそのままで


知らなければ次元上昇をしないとか


なんかスピリチュアルにある差別的な考え方?


別に差別してるわけではないのかもしれないけど


アセンションっていうものがあるんだよと


それを知っていることに優位性を感じてるように思えて


そういうのが垣間見えてる時点で


アセンションっていうそのプロセスはもう既に綻びができていると私は思うんだけどな


だって従来の意識のあり方と変わらない


目覚めている側が良くて


目覚めていない人たちはいつまでも眠ってる


何にも知らずに気づきもせずに


ずっと眠らされ続けてるというものの見方


❝眠っている❞っていうこの表現


別に人の意識状態に優劣をつけてるわけではないと言っているし


実際優劣なんて一切ない


ただそういうことを知っている人でその一部では


なんとなく感じる雰囲気として


どこかで


あー次元上昇について知っててよかったとか


アセンションについて知ることができてよかった


そういう情報が私のところにあってよかった


そんな風に思ってたりしないかなと


知れてよかったなと思うことは自然なことなんだけど


それ以外に知らない人について


どういう気持ちを向けているのか


そこが結構重要


それが綻びを生んでいるような感じがする


そういうことを知らない人たちのことを心のどこかで憐れんでたりしない?


かわいそうな人たちとか


気持ちの中でどこか下に見てないかな?って思うわけ


私たちは選ばれている


だからこういう情報に出会ったとか


どこかで選民的な、特別な人たちなんだっていうことを思っているのであれば


それもまた綻びに繋がる


注目されようと❝選ばれた者だけが見れる動画❞とか


そういうタイトル?つけられてたりするよね


❝必要な方にしか表示されません❞とか


目を引きたくて、印象に残したくてそうしている部分もあると思う


もちろんそれは全員ではないし


スピリチュアルについて色々と学んでる方は気づいてると思う


確かにそうではない側面もあると


類は友を呼ぶとか


波長が合う人が自分の周りに集まってくるとか


だからあながち必要な方にしか表示されない動画という表現がただ注目されるためだけに使われているとは言い切れないけど


でもそこにかこつけてその言葉で人を集めて


意識の方から誘導していく


煽動して選ばれし者なんだっていう感覚を持たせるような


そういう動画も結構あるから


知らず知らずに(無意識下で影響を受けて)そう思ってしまうようになっているということも否定はできないなと


さらに個人的に思うことを述べるのであれば


自分自身はこの動画を見てるから大丈夫だとか


この人の話を聞いていれば上手く行くはずとか


この人が話していることを実践していれば心配することはないとか


そうやって自分自身のことなのに他人に自分自身の責任を預ける


これは他人のせいにすると言う意味の他責ではなくて


他人に自分の責務を委ねる


相手に任せちゃう


自分の人生なのに自分で自分の人生に責任を負わない


そういう意味ではすごく自分自身について自分を軽く扱っているように思う


だけど誰も他人の人生の責任なんて負わない


何かあった時には


全部自分の責任になる


誰かにお任せして預けていたとしても自分にその責務を返されることになるよ?


そこで、でもあなたが言った通りにやったのにとか


こうするのがいいって言ったからそうしたのにとか


そういうことをいくら述べたとしても


そう伝えてきたあなたのせいだ、責任取ってくれって相手に言ったとしても


誰も責任を取りません


と言うより取れません


それにスピリチュアルなんて精神的な部分だから


責任の所在の証明のしようがない


後々困るのは自分自身になるよ


変な方に意識を連れて行かれて


そこでこんなんじゃなかったって気づいたとしても


遅くはないけど困るのは自分


しかも今まで自分できちっと自分のことを対処してこなかった


誰かが言っていた通りにやってただけ


そうなった時にどうしていいのか分からなくなる


そうならないためにも


また変な方に連れて行かれないためにも


よく考える必要があるよ


だって今のスピリチュアルって


未だにずっと同じこと言ってるじゃない


覚醒と眠りと言う状態の話ばかり


ここにいいも悪いも何もないんだよって話しながら


ずっと覚醒するか眠りでいるか


その話しかしない


覚醒の道がアセンション


眠りの道はディセンションなのかな?


もしくは従来のまま?


結局のところどっちかになるけども


でもさ


そういう言葉でのラベリングをするのってあんまりいいと思わない


私なんかは正直スピリチュアルについてよく分かってないからこんな風に思うのかもしれないけど


覚醒の道であろうと眠りの道であろうと どっちもアセンションできないのかな?とね


覚醒の方しかアセンションになりませんっていうのが謎


アセンションしたければ覚醒する


それしか道が残ってないっていうのが私の中では意味が分からない


そもそもさっきもちょっと触れたけど


覚醒と眠りって人を分けてるような風潮があること


その時点で疑問


だって人間自体には別に覚醒も眠りも何もないじゃん


ただなんとなく分かりやすくその状態を表現するために使用された単語が


いつの間にか人を選別するためのものになっちゃってるような感じがして


意識の状態の話から


その人自身についてまで範囲が広がってしまってるような?


分かりやすく説明するためにあえて固有名詞をつけたりすることって往々にしてあるけど


だけどそうやってラベリングして分けるような見方をする


そういう風になっちゃうのであれば


名前をつけるのやめた方がいいんじゃないのかなって思っちゃうよね


分かりやすくていいんだけどね


本当に色々とラベリングするのがお好きで


そういうラベリングした言葉たちが無駄に力を持つ


なんてことないものにまで力を宿しちゃって


意識のあり方が既に分けるような形になっちゃってて


結果的にはどちらかには確かになるんだけど


それが対立ではないけど


そういうものの見方に発展してしまうのであれば


伝え方にもう一工夫必要になってくると思う


そして根気よく誤解を解いていくしかない


そういう意味じゃないって


こういう考え方になっちゃうのももしかしたら二元性という世界がそうさせてしまうのかもしれないけどね