洗い物をしていたら漠然と自分の中にあったもの
想像と創造
個を体験する
思考と感情
二元性⇔一元性?
でも非二元と一元性はまた違う感じ?
反対のものとして位置していないような
でも人によっては二元性の反対として非二元を指す人もいるかもしれない
非二元は全体性の話
既にもう在るもの
二元性の世界みたいに
有ると無いではなく
何もかも既に在るという状態である
そしてそれは一つのものではない
ワンネスみたいに?
一つの中のうちの一人ではなく
これは一つの存在があってその存在から生まれた存在である私(あなた)だから全ては一つであるという意味ではない
何か一つの存在のというわけではなくこの世界そのもの?
その源と呼ばれる存在すらも全体の中の一部であって
私たちもまたその全体の一部である
確かに人としての意識の上では個である
けれども自分自身の本質、根源的な意味合いでの意識としては全体である
どこか一つの場所に戻るから全てになるのではなくて
また一つのもの(根源)を同じくしているから繋がっているのでもなく
そもそも我々の存在自体が(それは人間という意識であろうと元々の本質の意識であろうと本来は)既に全部である
世の中の?スピリチュアルは個と言う意識を体験しながら
人という生身の肉体を持った存在として
感情と思考を体験し体感する
かつ誰か(他者)と私(自己)がいる世界
更に想像と創造の思考の世界
それ(思考の世界)は人間という生身の肉体を持った世界(目の前の現実)や肉体を脱いだあとの世界(死後の世界)でも
想像と創造の世界から外れない(抜け出すことをしない)限り
ずっとそのまま
想念の中で体験し続けその中で生まれ変わりをし続ける
それを好きなだけ延々とやり続ける
(地球やこの宇宙も含めたそれそのものは)それを体験するための場所
より一層リアルに体験するために物理世界は用意されてるし
その世界を本物であるかのように感じて人は生きてる
だけど何もかも全部思考の中
それが悪いって話ではない
ただ
光と闇
善と悪
そういう二元性を天秤にかけるような
どっちかを取るやり方
そういう世界観
そういうものから距離を置きたいとか
それから卒業したいとか
もうそれをやめにしたいとか
そう思うのであれば
その世界観はスピリチュアルの中に見出すことは難しい
この世界観はどこまで行っても二元性のまま
思考領域から抜けない限り難しい話
そもそもこの二元性の状態ではない状態は
それは正直なところ
体験しようと思えばいつでも体験できること
私という存在が
自分の本質が何であるかを見続ければ
それを思い出すことは可能である
だからいつでも体験できることだから
焦ってやる必要はないし
急いでそうなろうと躍起になることもない
人というこの生(せい)の時間や二元性の世界、私とあなたのいる世界
この世界の設定をもっと楽しんだって構わない
その世界観を存分に味わってから
こっち(非二元の世界)に来たっていいんじゃないの?
これ(スピリチュアル)とそれ(神秘)は悩ませるためにあるわけじゃない
寧ろそういうのを逆に楽しむ
好きなようにして良くて
目に見えない存在からの導きとか
目に見えない存在からのアドバイスやサポートというもの
そういうのを体験したり感じたり経験したりすること
それもまた人としての楽しみであり
醍醐味なんだよって
なるほど??ね?
そんなことしてもいいのかな?って思ってるのであれば
大丈夫ちゃんと分かるからって
自分の中にもうすでに全部答えはあるんだから
本当はもう全部知ってる
だから安心していい
怖いことなんて本来何一つない
どの意識にいるのか
そこ次第
もちろん
望めば人でありながら人間らしく生きずに根源的な自分自身で生きることも可能であるが
ただそれはスピリチュアルの中にはない
スピリチュアルはあくまでも思考領域の話