2つ前のブログ(魂のルーツや比較について触れてるもの)の続きとして書いてるもの
これは誰かの考え方を否定してるわけじゃないし
自分の考えが正しいって言ってるわけでもない
押し付けたいわけじゃなくてこういう考え方もできるよねっていうだけ
これは自分で自分用に記録として残してるだけ
だから誰かに読んでもらいたくて書いてるわけじゃないよ
比較の中にはおそらく
認めてもらわなきゃいけないっていう意味も含まれていると思われる
結局誰かに認めてもらわないと自称になってしまって
自分だけはそう思っているということにもなりかねない
ただそれもそれでいいっちゃいいんだけどね
そうだって誰かに認められる前は結局そういうことになるし
それに認めてもらわなくたって別に構わないじゃん
他人からすると
あなたはそう言うけど実際のところはどうなんだろう?と言う話になる
それを本当にそう思っていいのかどうかと
やっぱり人と関わるからそこには当然ジャッジが入ってきちゃうものだよね
それは致し方ないことなのかもしれないけども行き過ぎるのは良くないと思う
本人が言っていることそれが本当にしろそうじゃないにしろ
他者に認めてもらうことによって
そうだねって言ってもらうこと
それによって自分も確かに安心する部分はあるし
と言ってもいいんだなっていう自信をもらえるなっていうのもある
あとはある程度の信頼性みたいなものを得られる
だけどどれもこれも実際のところ一番最初は自分で名乗ること(自称)から始まってる
誰かが名乗り始めてそれが認知され、認識し、定着したと言う結果が今の今までずっと続いている
そのずっと続いているもののことをきっと当然って思ってるんだろうな
それはそういうものなんだろうなっていうものを❝そうだ❞とたらしめるものだと思う
だけど結局始まりは
どこかの誰かがそう言い出した
他人がそれをそうだと認めた
だから今もそういうものが確立されている
こういうことなんだと思う
なので他者から認めてもらうということはある意味自分が言っていることを確立させるのに必要なものとも言える
だからこれは確かに大事な部分でもあるんだけど
時にそれが人を縛るよなぁと
誰かに認められて初めて自分というものを持てるとか
自信を持つとか、自分で自分に対してこれで良かったんだっていう確信を持つとかね、間違っていなかったっていうこと
それって自分で自分のことを信じていてもやっぱりどこか危うかったり不安だったりするじゃん
間違いなんて本当はないし正解なんていうものもないけど
でもこれで本当に良かったのかなって自分で自分を疑ったり
心折れそうになることだってあると思うんだ
他の人と全く違うことをやってたら
それって本当にこれで良かったのかなって
自分の中で確信があったとしてもそれでも結果が伴わなかったりすると
自分で自分のことを疑って不信に思ったり不安に思う事ってあるじゃん
だからそういう意味で誰かにそうだねって言ってもらえたりするだけで
あーよかったなってほっとしたりする
からそういう意味では認めてもらうことってすごく安心材料にもなるし
いい面もあるんだけど
でもその反面、認めてもらわないとダメなんだみたいなところばかりになってしまうと苦しくなっちゃうよね
確かに認めてもらうことは必要な時もあるけど
それはあらゆる部分で本当に要るのだろうかとも思えて
認めてもらう部分もあればそういうのが不要な部分もあると思うんだ
全部が全部誰かに認めてもらわないと肯定できない、生きていけないような世の中だったら私はそれは違うだろうなって思うの
そんなことはないと思うんだけども
そういう世の中にちょっとなっちゃってるような部分も否定もできなくて
受け入れてもらえるものばかりが素晴らしいとか、正しいみたいな状態になっていないだろうかって思う部分もあるの
そう思う民意みたいなものが世の中動かしてるようにも思えるし
受け入れられるか、受け入れられないかのその度合い(程度)によって
それは正しかったか、そうじゃないかみたいな感じで決まってるような雰囲気もあるような気がして
大多数がそうだって思うものが正しい みたいな
それこそ多数決でそれが正解って言ってるようなもので
でもそれって本当にそうなのかね
ちょっとだけ逸れちゃったから話を戻すけど
もちろん専門性があるものとかある程度の経験値が必要なものとか
要するに腕前などはやっぱり主観ではなくて客観が一番分かりやすいと思うし
相手が意地悪とかしてなければ
基本的には他者の目って今の自分をよく知れるから良いと思うの
本当に自分が思っていることと自分が周り(相手)に提供しているものの質が本当に一致しているのかどうか
それはやっぱり他人からの評価や感想といったところに頼るしかないし
自分では手応えがあったと思っても自分の中ではそう思ってるだけでそうじゃない場合もあるから
他者の目が入ることで初めて気づくこともあるしね
そういう部分では他者から認めてもらえることは
とても大きな役割を占めていることもあるだろうし、認めてもらえるって言うことはその人自身の成果とも言えるから
自分で自分の頑張りをしっかり感じることができるからいいとは思うの
技術とかそういう面では他人(ひと)からの目って時に大切だけど
でもそればかりになってしまうと自分自身がどこに向かおうとしているのかとか
本来の目的からずれたりする場合もあるから
そういうところの塩梅やここからここまでっていう線引きっては大事だよなぁって思うんだよね
だって人の目ばかり気にしてたら誰のためにそれをやってるのかわからなくなるし
何のためにそれをしているのかもだんだんわかんなくなってくる
それは結果的には人のためになるのだろうけど
でも目的が誰かに認めてもらうものになっちゃったら
その人に認めてもらわないとダメってことになっちゃって
大事な事っていうのはやっぱり❝誰かが❞ってわけじゃないと思うの
それこそ軸が自分じゃないところにあるような
だからと言って全部自分に軸を置いて自分のことしか考えなくなってしまうっていうのもそれはそれでまた話は変わってくる
こうなってくると話がだんだんややこしくなってきて
言葉にするのも面倒くさくなってくるよね
それにバランスを取るための、そういう部分の見極めってどこからどこまでっていう明確な線引きなんてないし
ここまでは人の目を気にする、ここまで人の目を気にしないとか
バサって決まってるわけじゃないじゃん
それって結構人によって境界線は様々だ うし、ケースバイケースによって変わると思うの
以前はそれでも良かったけど今回はそれではダメとかさ
色々ありそうじゃん?
感じ方も捉え方も人それぞれだから一概にこうだとは言えない難しいさもあるよね
だけど人の目は時に大事になる
自分を確認するためにも必要なものではある
でもやっぱり誰かに認められることが全てじゃないし
認められるために生きてるわけじゃないよなと
他人に認めてもらえないと一人前じゃないとか
他人に認めてもらえない私は私じゃないとかさ
なんか自分の評価を全部他人に任せるっていうのは何か違うような気もしていて
自分自身が❝これでいい❞って自分に言えること
そっちの方が大事だと思うの
ただこれもう行き過ぎるとただの自己満足になってしまったり
独りよがりになってしまったりするのはそれもまたそれで違うとさっきから何度も書いているように
気をつけなければならないこともあるし
ある程度他者からの評価っていうのは必要にはなると思う
ここを気をつけないと劣等感とか生み兼ねないから
何事もやっぱりほどほどが一番なんだろうな
極めるという意味ではやり込むことも大事だけど
ただそれが自分にとっての苦痛とか
どこまで行っても終わりが見えなくて
虚無感みたいなものに襲われるならやらない方がいいし
自分自身を見失っちゃうくらいならそんなに自分を追い込まなくてもいいんじゃないのかなって
そこまでして他者からの評価を気にする必要ないと思うんだ
ただ自分が自分を認めてあげればいいだけだという話にもなるしね
それが難しくて困ってる人もいると思うけど←そう言う意図はないんだけど偉そうに見えちゃったらごめんね
逆に極めすぎて一人ぼっちになるって事もあるしね
自分と対等に向き合えるものがいなくなるから
なんかいろんなものに満足できなくなる場合も中にはあるし
いろんなものを許せなくなりそうな気もしなくもない
達人とかになっちゃうとさ
孤独とも付き合うことになるから
自分にとってプラスに働く部分もあればそうでない部分も持ち合わせている
やっぱりどちらの側面もあるんだなって書いてて改めて思ってる
もちろん全てにおいてそういうものなんだけれど
おそらくここも自分の考え方(捉え方)ひとつで変わるのでしょうね
だから同じ状況に陥ってても
マイナスに働かない人もいる
それはそういうことが(その人の捉え方、考え方で)発生しているんだと思う
でも悩んだっていいと思うんだよ
自分を追い詰めたり自分を追い込むとかとか、相手を傷つけるようなこととかしなければ
ストレスも全くないよりかは多少あった方が良いって言われてるし
やっぱりバランスなんだろうね
どういう配分になるのかは人それぞれだけど
自分にとってのベストなバランスを見つけられたらいいよね
って勝手に私は思ってる
こういう見方もできるよねっていうことで
なんか同じようなことを何度も何度も書いちゃって輪舞曲(ロンド)みたいだな(汗)
しつこくてくどい
スンマソン