映画の事は、テレビの「洋画劇場」で学んだ ~テレビに映画解説者が居た時代~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

かつて、テレビのゴールデンタイムには、沢山の「洋画劇場」の枠が有った。

大体、21:00~23:00ぐらいの枠で、2時間の「洋画劇場」の枠が有り、そこで色々な映画が放送されていた。

そして、その「洋画劇場」の枠には、必ずその映画の見所について語る「映画解説者」が居た。

私は、その「洋画劇場」の枠で放送された映画を楽しんで見る一方、「映画解説者」から、映画の見方を学んだ。

 

 

テレビの「洋画劇場」の枠は、一時は民放キー局の全局に有り、各曜日毎に、競うように「洋画劇場」が放送されていた。

例えば、こんな感じである。

 

・「日曜洋画劇場」(テレビ朝日)

・「月曜ロードショー」(TBS)

・「木曜洋画劇場」(テレビ東京)

・「金曜ロードショー」(日本テレビ)

・「ゴールデン洋画劇場」(フジテレビ)※土曜日

 

私は、子供の頃はテレビばかり見ていたので、それらの「洋画劇場」も、よく見ていたが、

「日曜洋画劇場」で、解説の淀川長治が、その日に放送された映画の解説を終え、

「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」

と言うと、

「ああ、明日からまた学校か…」

と、憂鬱になった(?)ものである。

という事で、今回はテレビの「洋画劇場」が放送されていた時代について描く。

それでは、ご覧頂こう。

 

<「映画の語り部」淀川長治~雑誌「映画の友」の編集に携わり、映画評論家となる~そして、テレビの映画解説者の道へ…>

 

 

テレビの映画解説者の「草分け」といえば、

何と言っても、淀川長治(1909~1998)である。

淀川長治は、子供の頃から大の映画好きの少年であり、浴びるように映画を見て過ごしていたが、

映画好きが昂じて、1933(昭和8)年に、UA(ユナイテッド・アーティスツ)という映画会社の大阪支社に入社した。

「どうしても、映画に携わる仕事がしたい」

常々、そう思っていた淀川は、自らが望んだ通り、映画会社に就職し、以後、生涯を「映画」に捧げる事となる。

 

 

淀川長治は、子供の頃からチャップリンの大ファンであり、チャップリンに憧れ、「映画」の世界に入った。

1935(昭和10)年、その淀川の憧れの人・チャップリンが来日した際に、遂に淀川はチャップリンとの対面を果たす。

こうして、ますます映画の世界にのめり込んで行った淀川であるが、

1941(昭和16)年、不幸にも日米が開戦し、

「太平洋戦争」

が勃発してしまうと、日本では洋画を鑑賞する事が禁止されるようになってしまい、淀川にとっても、

「冬の時代」

が到来してしまった。

 

 

 

 

 

やがて、長かった戦争が終わり、再び日本でも自由に洋画が上映され時代が帰って来ると、

淀川長治は、水を得た魚のように、大活躍をする。

「映画の友」

という雑誌の編集に携わるようになった淀川は、映画評論を手掛け、

「映画評論家」

としての地位を確立して行った。

そして、映画評論家として名を馳せて行った淀川は、あのウォルト・ディズニーや、アルフレッド・ヒッチコックといった、大物映画人との対面も果たしている。

なお、1955(昭和30)年にヒッチコックが来日した時、あの大作家・江戸川乱歩や、淀川長治・双葉十三郎・植草甚一…といった映画評論家も顔を揃え、ヒッチコック「お出迎え」した。

 

 

淀川は、とにかく、子供の頃から映画を見まくっており、それまで日本で公開された洋画は、恐らく、殆んど全部見ていたと思われる。

従って、淀川は映画の「生き字引」であり、まさに「映画の語り部」と呼ぶに相応しい人であった。

いくら「好き」と言っても、ここまで突き抜けて「好き」を貫けるというのは、本当に凄い。

だからこそ、淀川は当然のように、ディズニーヒッチコック「お出迎え」するメンバーの中に選ばれていた。

 

 

 

1960(昭和35)~1963(昭和38)年にかけて、

NETテレビ(現・テレビ朝日)で、

『ララミー牧場』

という、アメリカの西部劇の連続ドラマが放送されたが、

淀川長治は、この『ララミー牧場』の放送時に、毎回、「解説」を担当した。

すると、淀川による「解説」が大ウケし、淀川は一躍、「お茶の間の顔」となった。

こうして、淀川は活字での「映画評論家」から、テレビでの「映画解説者」へと転身した。

そして、1966(昭和41)年から、テレビ朝日で放送開始されたのが、

「日曜洋画劇場」

であった。

 

<1966(昭和41)年…NETテレビ(※現・テレビ朝日)にて「土曜洋画劇場」(※後に「日曜洋画刑場」に変更)が放送開始>

 

 

1966(昭和41)年、NETテレビ(※現・テレビ朝日)にて、

既に「お茶の間の顔」になっていた淀川長治「映画解説」を務める、

「土曜洋画劇場」

が、放送開始された。

翌1967(昭和42)年に、放送枠が土曜日⇒日曜日に変更され、

「日曜洋画劇場」

となったが、淀川は30年以上にわたり、「日曜洋画劇場」で「映画解説」を務め、

それは、彼が亡くなる間際の1998(平成10)年まで続いた。

「そもそも、テレビの2時間枠で、洋画が放送されるという事自体が、画期的だった」

と、後に映画監督・大林宣彦が語っていた通り、

それまで、アメリカの「連続ドラマ」は沢山放送されていたものの、

「劇場公開された映画を、テレビで放送する」

という事自体が、それまで前例が無かった。

だが、NETテレビは、その画期的な事をやってのけ、そして、

「映画の本編が始まる前と終わった後に、淀川長治に、その映画について語ってもらう」

という、これまた面白い試みを行なった。

そして、その試みは見事に成功したと言って良い。

 

<テレビの「洋画劇場」のフォーマットを確立した、「日曜洋画劇場」~そして、淀川長治の決め台詞「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」>

 

 

 

さて、こうして1966(昭和41)年に放送開始された、

「土曜洋画劇場」⇒「日曜洋画劇場」

であるが、その「日曜洋画劇場」では、いくつかの「お約束」が有った。

 

・淀川長治が、映画の本編が始まる前に登場し、これから放送される映画の「見所」を語る。

・映画は基本的には「吹き替え版」で放送される。

・2時間の枠に収まるように、映画はテレビサイズにカットされている。

・映画の本編の放送が終わった後、淀川が再び登場し、その映画について改めて「解説」する。

 

…という事で、「日曜洋画劇場」が確立したフォーマットは、

以後、他局が「洋画劇場」枠を作った際にも、踏襲されて行った。

 

 

 

淀川長治といえば、テレビの「映画解説」の際には、ある「ポリシー」が有った。

それは何かと言うと、

「どんな映画にも、必ず良い所は有る。だから、その映画の良い部分について語りたい」

という事である。

従って、「日曜洋画劇場」における淀川は、いつも好々爺のようにニコニコしており、決して、その映画の事を悪く言わなかった。

また、淀川は常々、

「映画に限らず、一流の物を見なさい。美の栄養を吸収しなさい…」

という事を語り、

「良い物を、どんどん見なさい」

という事を、若い世代に推奨していた。

だからこそ、淀川はテレビで「映画解説」の仕事をするようになったのかもしれない。

そして、淀川はとても優しい性格だったようで、

「私は、嫌いな人には会った事が無い」

と、いつも言っていた。

これは、なかなか言える事ではない。

もしかしたら、映画を沢山見ていた淀川は、

「世の中には、色々な種類の人間が居る。それぞれに個性が有るから、お互いにそれを認めて行くべし」

という事を、映画を通して学んでいたからこそ、そのような言葉を言えたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

そして、「日曜洋画劇場」の本編が終わり、淀川長治が登場し、映画の「解説」が終わると、

彼は、必ずこの台詞で締めくくった。

「はい。それではまた次週、お会いしましょう…」

と言った後、淀川は、

「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」

と言うのである。

そして、「日曜洋画劇場」のエンディング・テーマで、何とも物悲しい音楽が流れて来る。

これにて、「日曜洋画劇場」の放送が終わると、時刻は日曜日の23:00頃である。

さっきも書いたが、淀川の「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」を聞くと、

「ああ、楽しかった日曜日も終わってしまった…。明日からまた学校か…」

と、憂鬱な気分になったものである。

きっと、日本全国に、そういう少年少女(?)は沢山居た筈である。

 

<淀川長治の「活字」での映画評論活動と、淀川長治の親友・双葉十三郎の「ぼくの採点表」~映画評論家の「二大巨頭」>

 

 

さて、テレビの「日曜洋画劇場」では、

基本的には、その映画の良い部分に言及し、いつもニコニコしていた淀川長治であるが、

テレビでの「映画解説」の傍ら、活字での「映画評論」の活動も、並行して行なっていた。

淀川の「映画評論」の著書は多数有るが、活字での淀川の「映画評論」を読むと、実は意外と「辛口」の事も書いたりしている。

「淀川さん、活字だと結構厳しい事も書いてるな…」

と、私はビックリしてしまったが、

「活字での映画評論と、テレビの映画評論は、全く別物である」

と、彼は考えていたのかもしれない。

「テレビの洋画劇場は、とにかく視聴者に映画の楽しさをわかってもらうための物である」

と、淀川は思っていたのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

そして、先程も少し言及したが、淀川長治の親友で、淀川と同じく、映画評論家だった、

双葉十三郎(1910~2009)という方は、本当に物凄い人である。

双葉十三郎は、映画雑誌「スクリーン」にて、1950年代から、約半世紀にわたり、

「ぼくの採点表」

というタイトルで、洋画の寸評と採点を行なっていた。

そして、その間、日本で公開された洋画は、名作・大作から、B級・C級・Z級(?)の、殆んど誰も見ていないようなマイナーな映画まで、ほぼ全てを見て、それらの映画について、記録し続けていた。しかも、これは読み物としても、非常に読みやすく、大変面白い。

また、双葉十三郎も、淀川長治と同様、子供の頃から大の映画好きであり、サイレント映画の時代から、膨大な映画を見て育った。

双葉十三郎は、「スクリーン」に連載された記事に加え、自らが映画評論家になる前の、戦前のサイレント映画も「戦前編」として書き加え、

「ぼくの採点表」

のシリーズを、本として刊行した。

こうして、20世紀初頭から、2000(平成12)年頃に至るまでの、ほぼ全ての洋画について、たった1人の評論家が、寸評・採点を行なうという、空前絶後の大偉業が達成された。

勿論、こんな事をやってのけた人は、他に誰も居ない。

私も、「ぼくの採点表」は持っているが、これを読めば、「映画史」が全部わかると言っても過言ではあるまい。

さっきも書いたが、「好き」もここまで突き抜けると、本当に凄すぎる。

私は、今からでも遅くないから、淀川長治・双葉十三郎に、「国民栄誉賞」でもあげたらどうかと、声を大にして言いたい。

それぐらい、このお二人の業績は、物凄い事である。

 

<テレビ東京「木曜洋画劇場」(1968~2009)>

 

 

さて、NETテレビの「日曜洋画劇場」が成功を収めたのを皮切りに、

以後、民放各局で、続々と「洋画劇場」枠が作られて行った。

1968(昭和43)年、東京12チャンネル(※現・テレビ東京)にて、

「木曜洋画劇場」

が放送開始されると、番組初期の解説者として

芥川龍之介の三男・芥川也寸志(在任:1968~1973)が、映画の魅力について語っていた。

 

 

 

以後、テレビ東京の「木曜洋画劇場」は、

・山城新伍(在任:1981~1982)、

・河野基比古(1982~1987)

などが、「映画解説」を務めた。

勿論、テレビ朝日の「日曜洋画劇場」淀川長治に倣い、

映画の本編の前後に登場し、その映画について語っていた。

 

 

そして、「木曜洋画劇場」の映画解説者といえば、私は、

木村奈保子(在任:1987~2003)

が、最も印象深い。

当初、子供心にも、

「何だか、随分と綺麗な女の人が、映画解説をやってるんだな…」

と、思ったものであるが、木村奈保子は、映画解説の終わりに、

「今夜の映画、貴方のハートには何が残りましたか?」

という決め台詞で締めくくるのが、「お約束」であった。

 

 

しかし、「木曜洋画劇場」といえば、

勿論、有名な映画も放送されるのだが、何処で見付けて来たかわからないような、

所謂「B級ホラー映画」も、沢山放送されていた。

いや、テレ東らしく、むしろ、「B級ホラー映画」ばかりが放送されていたような印象さえ有る。

だから、木村奈保子が、

「今夜の映画、貴方のハートには何が残りましたか?」

と、いくら言ったとしても、

「いや、別に何も残ってないんだけど…」

としか言いようが無かった(?)。

しかし、テレビではないと絶対に見れないような、B級・C級・Z級映画も、「木曜洋画劇場」を通して、見る事が出来たのだから、そいういう意味では、

「木曜洋画劇場のお陰で、私のハートには、マイナーな映画の印象が残った(※詳細はよく覚えてないけど)」

と、私は言いたい気持ち(?)である。

 

<TBS「月曜ロードショー」(1969~1987)>

 

 

 

TBSでも「洋画劇場」の枠が創設され、

「土曜ロードショー」(1966~1969)⇒「金曜ロードショー」(1969)という変遷を経て、1969(昭和44)年から、

「月曜ロードショー」

が、放送開始された。

そして、「月曜ロードショー」で、映画解説を務めていたのが、荻昌弘である。

 

 

 

 

 

荻昌弘は、大のミステリ好き、スパイ映画好きとして、有名だった。

従って、「月曜ロードショー」では、

『「007」シリーズ』

が、沢山放送されていた。

また、荻昌弘『ロッキー』シリーズも好きだったので、そちらもよく放送されていたが、

「月曜ロードショー」は、1987(昭和62)年に一旦放送を終了すると、

以後、「ザ・ロードショー」(1987~1988)⇒「火曜ロードショー」(1988~1989)⇒「火曜ビッグシアター」(1989)…といった変遷を辿って行く。

だが、TBSの「洋画劇場」枠の全盛時代は、やはり荻昌弘「月曜ロードショー」の時代であった。

 

<フジテレビ「ゴールデン洋画劇場」(1971~2001)>

 

 

 

 

1971(昭和46)年、フジテレビの「洋画劇場」枠として放送開始されたのが、

「ゴールデン洋画劇場」

である。

「ゴールデン洋画劇場」の放送枠は、1971(昭和46)~1981(昭和56)年までは金曜21時~、

1981(昭和56)年~以降は、土曜21時~である。

そして、番組放送開始当初は、前田武彦が映画解説を務めていたが、1973(昭和48)年に降板し、

1973(昭和48)年以降は、高島忠夫が、番組終了の2001(平成13)年まで、四半世紀以上にわたり、映画解説を務めた(※一時、病気により休養した後、復帰している)。

 

 

 

 

高島忠夫といえば、俳優である一方、軽妙な語り口の司会者としても定評が有り、

「ゴールデン洋画劇場」

でも、凄くわかりやすく映画の見所などを解説し、お茶の間で好評を博した。

なお、これは「余談」だが、

映画『アメリカン・グラフィティ』(1973)「ゴールデン洋画劇場」で放送された際、

サザンオールスターズ桑田佳祐が、ウルフマン・ジャックの「吹き替え」を演じている。

「ゴールデン洋画劇場」は、このように、タレントの「吹き替え版」を、好んで放送する傾向が有った。

 

<日本テレビ「水曜ロードショー」(1972~1985)⇒「金曜ロードショー」(1985~)>

 

 

 

 

 

さて、日本テレビの「洋画劇場」枠といえば、

現在も残っている、民放地上波の「洋画劇場」枠の「最後の砦」となっている、

「金曜ロードショー」

である。

1972(昭和47)年に、

「水曜ロードショー」

として放送開始された後、13年間にわたって放送された後、1985(昭和60)年に金曜21時~の枠に移動し、

「金曜ロードショー」

となったが、番組放送開始の1972(昭和47)年から、番組の顔として映画解説を務めたのが、水野晴郎である。

水野晴郎といえば、とにかく、いつもニコニコして、実に楽しそうに映画解説をしている人、という印象が有る。

そして、「金曜ロードショー」といえば、スティーブン・スピルバーグ監督の映画など、

「家族で楽しめる映画」

を、沢山放送していた印象が強い。

 

 

 

 

 

そして、「金曜ロードショー」といえば、

やたらと、『刑事コロンボ』シリーズや、

或いは、『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの、宮崎駿監督作品を沢山放送していた印象が強い。

「またコロンボかよ…」

「また宮崎駿の映画かよ…」

そう思いながらも、何だかんだ言って見てしまっていたが、

コロンボ宮崎駿の魅力を、いち早く「お茶の間」に届けた水野晴郎の功績は、誠に絶大である。

そして、今もなお、「金曜ロードショー」は、スタジオジブリ作品と、『名探偵コナン』シリーズばかり、やたらと放送し、

「またジブリかよ…」

「またコナンかよ…」

と、視聴者に言われながらも、何だかんだ言いながらも、みんな見ている。

ジブリやコナンが「国民的映画」になった、重大な要素の一つとして「金曜ロードショー」でのヘビーローテーションの放送が有った…と言っても、過言ではあるまい。

 

 

 

水野晴郎は、1997(平成9)年まで、「金曜ロードショー」の映画解説を務めたが、

水野晴郎は、映画解説の終わりに、必ず、この決め台詞で締めくくっていた。

「いやあー!映画って、本当にいいものですねえ!!」

そう言われると、こちらとしても、

「本当に、そうだよなあ…」

という気持ちになったものであった。

 

<テレビに「映画解説者」が居た時代~家族揃って、テレビで映画を楽しんでいた「幸福な時代」>

 

 

という事で、テレビの「洋画劇場」の時代について、色々と語ってみたが、

今や、「サブスク」の動画配信サービスなどで、個人個人の端末で、自分が好きな映画やドラマを、安価で好きなだけ見る事が出来る時代である。

それは、好きな映画を好きな時に見る事が出来るので、大変喜ばしい事ではあるが、私は、こうも思うのである。

「やたらと映画に愛情を持っている映画解説者が、映画の先生として、視聴者に映画の魅力を教えてくれた時代は、とても面白かった」

…そう、テレビの映画解説者は、どの人も、物凄く映画に詳しく、「映画愛」に溢れていた。

そういう人達が、

「この映画は、こんな所が素晴らしいんですよ…」

という「指南役」になってくれたからこそ、

「映画の面白さ」

が、より一層、わかるようになった…という気がするのである。

そして、家族揃って、一つの映画を見るという楽しみも、教えてもらった、そんな「幸福な時代」でもあった。

「時代は変わった」

と言われれば、そうなのかもしれないが、これだけは言っておきたい。

「映画は、漫然と見るのも良いが、他の人の感想を読んだり、映画解説を読んだりすると、より一層、更に楽しめる」

…という事で、私は今後も、映画やドラマを見る時は、色々と「深掘り」をしながら、楽しんで行きたいと思っている次第である。

それこそが、テレビの「洋画劇場」の時代の映画解説者の皆さんから教えてもらった事であると、私は思っている。