ロシアのプーチン大統領が仕掛けた「ウクライナ侵攻」作戦は、着々と進み、ウクライナの首都・キエフは、もはや陥落寸前である。
21世紀の、今の時代に、こんな信じ難い「暴挙」が公然と行なわれ、しかも、核兵器の使用までチラつかせているプーチンに対し、
アメリカやヨーロッパ各国も、何も為す術も無いという事に、私は暗澹たる思いである。
「俺達に手出しをしたら、核兵器をぶち込むぞ」
と、プーチンは他国に対し、脅迫をしているのに等しい。
これでは、プーチンはまるっきり「ヤクザ」そのものではないか。
という事で、今、私は「緊急特別企画」として、「ロシア・ソ連」と「ウクライナ」の歴史を書き、
現在、起こっている、ロシアの「ウクライナ侵攻」の背景を読み解こうと試みているが、
前回は、ロシア帝国の強権的な皇帝・ニコライ1世が、「クリミア戦争」(1853~1856)に敗れる所までを描いた。
という事で、今回は、「クリミア戦争」の戦後処理を定めた、「パリ条約」(1856)締結の所から、ご覧頂こう。
<「パリ条約」(1856)により、ロシアの「南下政策」は、一旦は挫折>
1856年、ロシアの敗北により、「クリミア戦争」が終結すると、
「クリミア戦争」の戦後処理を定めるため、交戦国が集まり、「パリ条約」が締結された。
その結果、ロシアは「モルダヴィア・ワラキア(※後のルーマニア)の独立」、「黒海の中立化」を、認めさせらてしまった。
その結果、ロシアの船は黒海を航行出来なくなってしまったのである。
ここに、ロシアの「南下政策」の野望は、一旦は挫折してしまった。
夥しい数の犠牲者を出しながら、ロシアは「クリミア戦争」に敗れてしまい、とんでもなく高い代償を払わされる事となってしまったのである。
<アレクサンドル2世(在位:1855~1881)の時代~「農奴解放令」と「東方拡大」~日本とロシアは「樺太・千島交換条約」(1875)を締結>
「クリミア戦争」の最中の1855年、ニコライ1世が亡くなり、アレクサンドル2世(在位:1855~1881)が、後を継いだ。
従って、「クリミア戦争」の終結と、その後の「パリ条約」の締結は、
まだ即位した直後の、アレクサンドル2世によって、行なわれたものである。
「クリミア戦争」の敗北により、ロシアの「不敗神話」は崩壊し、ロシア社会の後進性が、白日の下に晒されたが、アレクサンドル2世も、その事は痛感していた。
当時のロシア社会は、未だに、前近代的な「農奴制」が残っていた。
いつまでも、「農奴制」のような、遅れた社会では、ヨーロッパ列強には勝てないと、
ロシア国内の広汎な民衆から、改革を叫ぶ声が上がった。
そこで、1861年、アレクサンドル2世は「農奴解放令」を出し、ロシアは史上初めて、「農奴」を身分的に解放する事とした。
しかし、「農奴解放令」は、不徹底であり、農地の多くは、農民個人ではなく、「ミール(農村共同体)」に引き渡された。
だが、曲りなりにも、「農奴解放令」が出された事により、ロシアでも、遅ればせながら「資本主義」が発達するキッカケが作られた。
アレクサンドル2世は、1864年に「ゼムストヴォ」という地方自治機関を作り、
1874年には、全身分の男子に対する「徴兵制」を施行するなど、矢継ぎ早に「大改革」を推し進めて行った。
アレクサンドル2世は、ロシアの「近代化」を、何としても成し遂げようとしていたのである。
だが、アレクサンドル2世は、性急な改革と、「農奴解放令」により、ますます生活が苦しくなってしまった民衆達の恨みを買う結果になってしまった。
「クリミア戦争」に敗北した事により、ロシアの「南下政策」は失敗に終わってしまったが、
アレクサンドル2世は、「それならば」と、東方に目を向け、アレクサンドル2世は「東方進出」を目指した。
当時、中国の清王朝は、「アヘン戦争」(1840~1842)で英国に敗北して以降、その弱体ぶりを露呈していたが、
清は、「アロー戦争」(1856~1860)、「太平天国の乱」(1851~1864)で、更に苦境に立たされていた。
その清の苦境に乗じて、ロシアは清と「アイグン(璦琿)条約」(1858)を結び、アムール川(黒竜江)以北の地を獲得した。
更に、ロシアは清と「北京条約」(1860)を結び、ウスリー川以東の沿海州を獲得、この沿海州に、ウラジヴォストーク(ウラジオストク)を建設した。
また、清とロシアは「イリ条約」(1881)も結び、清露間の国境が確定され、ロシアは東トルキスタンの一部を獲得した。
という事で、ロシアは遂に「東方進出」により、東の端の地にウラジヴォストーク(ウラジオストク)という「不凍港」を獲得する事となった。
さて、ここからは日本とロシアとの関係のお話である。
幕末の日本には、アメリカをはじめ、欧米列強が次々にやって来たが、
その結果、日本は「開国」させられ、日本は欧米列強諸国と、「不平等条約」を結ばされた。
それまで、200年以上も「鎖国」していた日本は、否応なく、国際社会の舞台に引っ張り出された。
1855年、日本はロシアと「日魯通交条約」を締結し、日本とロシアは「北方領土」の国境を確定させた。
日本は、この時、国後・択捉・歯舞・色丹の「北方4島」を領土として、ロシアは「千島列島」を領有した。
また、樺太は日本とロシアの雑居地とされ、どちらの領土にもならなかった。
その20年後、1875(明治8)年、日本とロシアは、新たに「樺太・千島交換条約」を締結した。
この時の日本全権は榎本武揚だったが、「樺太・千島交換条約」により、
日本は樺太の全ての権利を放棄し、樺太はロシア領となったが、そのかわりに、千島列島の全島が、日本領となった。
という事で、「日魯通交条約」(1855)⇒「樺太・千島交換条約」(1875)は、今に至る、日本とロシア間における「北方領土」問題の、全ての始まりなので、この事は、まずは抑えておきたい。
更にロシアは、この頃、西トルキスタンに軍隊を派遣して、
かつての「ティムール帝国」の流れを汲み、ウズベク人が支配する、「ブハラ・ハン国」「ヒヴァ・ハン国」「コーカンド・ハン国」に侵攻した。
その結果、1868年にロシアは「ブハラ・ハン国」を保護国とすると、1873年には「ヒヴァ・ハン国」も保護国化し、
1876年には「コーカンド・ハン国」を滅ぼし、ロシアは「ウズベク3ハン国」を、全て支配下に置いた。
という事で、アレクサンドル2世の時代も、相変わらずロシアは、せっせと領土拡大に励んでいたのであった。
<露土戦争(1877~1878)~ロシアが、再び「南下政策」を目指すも、ヨーロッパ列強が再び阻止>
ところで、領土拡大を続けるロシア帝国にとって、最大のライバルだったのが、オスマン帝国である。
オスマン帝国は、16世紀のスレイマン1世(在位:1520~1566)の時代に最盛期を迎え、
スレイマン1世の頃のオスマン帝国の領土は、アラビア半島~北アフリカ~小アジア~東ヨーロッパなど、広大な範囲に跨っており、一時は、地中海はオスマン帝国の内海になっていた。
その当時のロシアといえば、ようやく「タタールの軛(くびき)」を脱して、強大化への道を歩み始めた頃であり、オスマン帝国とロシアの間には、かなりの格差が有った。
だが、その後、オスマン帝国の国力は、徐々に衰えて行き、
逆に、ヨーロッパの列強諸国が力を付け、オスマン帝国の領土は、次々にヨーロッパ諸国に奪われて行った。
そして、ロシア帝国も強国に成長すると、ロシア帝国とオスマン帝国は、領土を巡り、何度も戦う間柄となった。
前回の記事で書いた「クリミア戦争」(1853~1856)も、元はと言えば、ロシア帝国とオスマン帝国の戦いである。
その「クリミア戦争」に敗れたロシアは、
前述の通り、「東方進出」によって、中国北西部や中央アジアなどに新たな領土を獲得し、国力を伸ばすと、
ロシアは、一度は挫折した「南下政策」を、またぞろ狙うようになっていた。
やはり、ロシアはどうしても南の地が諦められない国のようである。
1870年代、ロシアでは「汎スラヴ主義」という思潮が盛り上がった。
「汎スラヴ主義」というのは、スラヴ系諸民族の連合・統一をめざした思想・運動であり、バルカン半島や東欧における、スラヴ民族の、オスマン帝国(トルコ)やオーストリアの支配からの解放運動として始まり、
19世紀後半、ロシアの「南下政策」と結び付いた(※やがて、ドイツ‐オーストリアの推進する「汎ゲルマン主義」と衝突する事となる)。
この「汎スラヴ主義」と、ロシアの「南下政策」が結び付いた結果、1875年、オスマン帝国領内のブルガリア人が、独立を目指して蜂起したが、これはオスマン帝国に鎮圧された。
すると、ロシアはこの時の「ブルガリア人虐殺」に抗議するという名目で、1877年、ロシアはオスマン帝国に宣戦布告した。
ここに、「露土戦争(ロシア・トルコ戦争)」(1877~1878)が勃発したのである。
またぞろ、ロシアは自らに都合の良い理屈で、他国に戦争を仕掛けた。
そして、「露土戦争」は、ロシアがオスマン帝国に圧勝し、
その結果、1878年、ロシアとオスマン帝国の間で「サン・ステファノ条約」が締結された。
「サン・ステファノ条約」は、「セルビア、ルーマニア、モンテネグロの独立」、「ブルガリアは領土を拡大し、ロシアの保護下に置く」という、ロシアに大変有利な内容であった。
ところがである。
ロシアに有利な内容の「サン・ステファノ条約」に対し、ヨーロッパ列強諸国から「待った」が掛かった。
そこで、ドイツ帝国のビスマルク首相が「公正な仲介人」として登場し、ビスマルクのドイツが、ロシアとヨーロッパ列強の間を取り持つ形で、
「サン・ステファノ条約」の内容は大幅に修正され、新たに「ベルリン条約」が締結され、ロシアは譲歩を余儀なくされた。
「ベルリン条約」の内容は、「セルビア、ルーマニア、モンテネグロの独立」は認められたものの、
「ブルガリアの領土縮小」、「ボスニア・ヘルツェゴヴィナをオーストリアが統治」、「キプロス島を英国が統治」といった内容であり、
ロシアにとっては、またしても「南下政策」の野望は阻止される結果となってしまったのである。
というわけで、ロシアが領土拡大をしようとする時、自らの権益が削がれそうになった場合は、ヨーロッパ列強は結束して、ロシアに対抗するという構図が出来上がるという事が、これでよくわかろうというものである。
ともかく、ロシアはまたしても、「煮え湯」を飲まされる事となった。
<マルクス(1818~1883)とエンゲルス(1820~1895)~『資本論』(1848)と『共産党宣言』(1867~1894)の刊行により、「社会主義思想」が誕生>
さてさて、19世紀に入り、ヨーロッパ列強は「産業革命」を成し遂げ、
「資本主義」は高度に発達し、社会は大きく変わって行った。
「資本主義」が発達すればするほど、確かに社会は発展して行ったが、
いつの間にか、世の中には、どうしようもない「格差」が生じるようになっていた。
その「格差社会」に警鐘を鳴らした思想家こそ、19~20世紀の社会に、最も大きな影響を与えた思想家、カール・マルクス(1818~1883)である。
カール・マルクスは、ドイツの人であるが、1848年、マルクスは親友のフリードリヒ・エンゲルスと共に、
マルクス・エンゲルスの共著として、『共産党宣言』を刊行した。
『共産党宣言』で、マルクスとエンゲルスは、今の世の中は、ブルジョワジー(富裕層)とプロレタリアート(貧困層)の「格差社会」になっているが、その「格差社会」を打破するために、
「万国のプロレタリアートよ、団結せよ」
と述べており、プロレタリアートの決起を促している。
なお、この頃、ヨーロッパ諸国は「1848年革命」に沸いており、マルクスとエンゲルスは、なおの事、危険視されていた。
すると、当然ながら、彼らは政府から「危険思想」の持ち主であると睨まれ、フランスへと亡命した。
そして、1867年、マルクスは歴史的大著『資本論』の第1部を刊行している。
『資本論』で、マルクスは「資本主義社会」の仕組みを、これでもかというぐらい、細かく分析しており、
「資本主義とは、生産手段を持つ資本家が、生産手段を持たない労働者を賃金で雇う仕組みである。労働者は、自らの時間を資本家に売っているが、資本家によって、労働者は搾取されている」
といった事を述べ、
「資本主義社会は、全てがお金に換算され、資本家はますます利益を追求し、労働者は、いつまで経っても搾取される」
と言って、「資本主義社会」の仕組みを喝破した。
この『資本論』は、1885年に第2部、1894年に第3部が刊行されているが、
現代社会においても、『資本論』は、再び脚光を浴びているという。
私は、難しい事はサッパリわからぬが、「労働者が、資本家に搾取されている」という部分については、「まあ、確かにそうだろうな」とは思う。
という事で、マルクスが生み出した「社会主義思想」は、後のロシア社会に大きな影響を与えて行く事となるのである。
<ロシアの「社会主義思想」の芽生え~「ナロードニキ」の誕生と、その挫折~1881年3月13日…アレクサンドル2世、「ナロードニキ」に暗殺される>
マルクスとエンゲルスが、『共産党宣言』を刊行し、世の中に大きな影響を与えて行った頃、
ロシアにも、ゲルツェンという思想家が現れたが、ゲルツェンは、
ロシア社会の農村共同体「ミール」を基礎とした、独自の社会主義思想を打ち出した。
これは、ロシア社会において、「ナロードニキ理論」の元になった。
1861年の「農奴解放令」以降、1870年代になると、
ロシアの学生・知識人らは、「ヴ=ナロード(人民の中へ)」をスローガンとして、
人民の中に入って行き、内から人民の自覚を促し、社会改革を行なおうとしていた。
その社会改革を目指す人達こそ、「ナロードニキ」と称される人達であるが、
ロシア政府の官憲による弾圧と、毎日の生活に追われ、生きて行くのに精一杯の農民達は、全く無関心であった。
絶望した「ナロードニキ」の一部は、「テロリズム」に走る事となった。
1881年3月13日、テロリズムに走った「ナロードニキ」によって、
アレクサンドル2世は、暗殺されてしまった。
「社会改革が出来ないなら、トップを殺してしまえ」
という、何とも物騒なやり方であるが、ともあれ、アレクサンドル2世はテロに斃れたのである。
こうして、アレクサンドル2世の時代は、唐突に終わりを告げた。
<アレクサンドル3世(在位:1881~1894)と、「ビスマルク体制」の時代>
1881年、暗殺されてしまったアレクサンドル2世の後を継ぎ、
その息子・アレクサンドル3世(在位:1881~1894)が、その後を継いだ。
このアレクサンドル3世の時代は、「反動と暗黒の1880年代」などと言われ、アレクサンドル3世は、頗る評判が悪い。
だが、アレクサンドル3世の時代は、ロシアが国際社会において、重要な地位を占めた時代でもあった。
当時のヨーロッパは、ドイツ帝国の「鉄血宰相」ビスマルクを中心に、動いていた。
1870~1890年のヨーロッパは「ビスマルク体制」と称されているが、「ビルマルク体制」には、下記のような変遷が有った。
元々、ドイツ・オーストリア・ロシアは「三帝同盟」(1873~1878)を結んでいたが、
「露土戦争」(1877~1878)の後の「ベルリン条約」(1878)で、ビスマルクに、自らの有利な内容の条約をぶち壊されたロシアは激怒し、一時、ロシアとドイツの関係は冷え切ってしまった。
その後、ロシアとフランスが接近する事を恐れたビスマルクは、ドイツとロシアの間で、「再保障条約」(1887~1890)を結び、両者の関係改善を図った。
ビスマルクは、このように巧みに各国間を調整したが、彼の基本戦略は「フランスを孤立させる事」と考えれば、わかりやすい。
1890年、ドイツでビスマルクを重用していた、ヴィルヘルム1世は亡くなり、後を継いだヴィルヘルム2世により、ビスマルクは失脚したが、
1891年、当時、国際的に孤立していたロシアとフランスは接近し、「露仏同盟」(1891年政治協定⇒1894年軍事協定)を結んだ。
この「露仏同盟」が、やがて英国を含めた「三国協商」(英国・フランス・ロシア)に発展し、「三国同盟」(ドイツ・オーストリア・イタリア)と、対立を深める事となる。
ともあれ、ロシアとフランスは「露仏同盟」を結んだ事により、
ロシアにはフランス資本が大量に入り、ロシア経済は大きく発展した。
そして、ロシアとフランス両国の友好の証として、フランスの都・パリに「アレクサンドル3世橋」が建てられた。
「アレクサンドル3世橋」は、セーヌ川に架かる、数多くの橋の中でも、とりわけ美しい橋である。
<19世紀の「ロシア文化」~百花繚乱、豪華絢爛の「ロシア文化」の黄金時代>
というわけで、紆余曲折を経ながらも、大国として発展して行った、19世紀のロシア帝国であるが、
ロシア帝国が発展して行くにつれ、「ロシア文化」も、花開いて行った。
率直に言って、私はプーチン大統領は大嫌いだが、「ロシア文化」は非常に愛好している。
というわけで、19世紀の「ロシア文化」を、ご紹介させて頂く。
プーシキン(1799~1837)は、自伝的恋愛小説『オネーギン』や、プガチョフの乱(1773~1775)を題材にした歴史小説『大尉の娘』などを書き、
「近代ロシア文学の祖」と称される、ロシアの国民的作家であるが、
プーシキンは、破滅的で破天荒な生き方をして、数多くの女性と浮名を流したという事でも知られている。
プーシキンは、ナターリア・プーシキナという、美しい女性を妻としていたが、
プーシキンが、ナターリアと結婚する前、彼女宛に送ったラブレターには、
「今日は、私があなたに初めてお目にかかってからちょうど1年です。この日は…私の人生において…。考えれば考えるほど、私の存在はあなたから切り離せないとますます確信するようになっています。私はあなたを愛し、あなたに従うために創られたのです。私の他の関心事はすべて迷いと狂気にすぎません」
という、何とも情熱的な文章が書いてあったという。
流石は、ロシアの国民的作家である。
ちなみに、プーシキンの同時代には、数多くの優れた詩人達がおり、
ロシア文学は、「金の時代・銀の時代」と称される、黄金時代を迎えた。
中でも、プーシキンは今でも圧倒的な人気が有り、
モスクワには、彼の名を冠した「プーシキン美術館」も有る。
だが、「ロシア文学」を作り上げたプーシキンは、1837年、妻に執拗に言い寄っていた男と決闘し、その時の傷が原因となり、38歳の若さで亡くなってしまった。
天才作家の、あまりにも若すぎる死は、非常に惜しまれる。
ゴーゴリ(1809~1852)は、ロシアの官僚制度を痛烈に批判した『検察官』や、
ロシア社会の貧困や卑俗を書いた『死せる魂』といった、「写実主義文学」を書く一方、
『鼻』という、何とも奇妙キテレツな作品など、多彩な作品を残した。
ゴーゴリも、ロシア文学界を代表する作家の1人である。
ツルゲーネフ(1818~1883)は、青春の淡い恋を描いた『はつ恋』や、
父と子の世代の相克を描いた『父と子』という大作などを書き、
農奴制社会の農民を写実的に描いた『猟人日記』といった作品を残した。
ロシア文学には、綺羅星の如き、大作家が沢山居るが、まだまだ超大物が居る。
それは、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフらである。
ロシア文学を代表するといえば、何と言っても、ドストエフスキー(1821~1881)であろう。
そして、ドストエフスキーが書いた、世紀の傑作といえば、誰もが題名ぐらいは知っているであろう、『罪と罰』である。
『罪と罰』は、自分が非凡な存在であると、日頃から自惚れている、ラスコーリニコフという青年が、ある日、金貸しの老婆を殺害してしまい、その罪の意識に苛まれる…という物語であるが、何しろ『罪と罰』は大長編であり、時間が有る時にでも、腰を据えて読んでみると良いのではないだろうか。
手っ取り早く、ストーリーが知りたいのであれば、漫画版なども有るので、ご興味が有れば、お読み頂きたい。
ドストエフスキーは、更に『カラマーゾフの兄弟』という超大作も書いているが、
カラマーゾフ家の「父殺し」をテーマにした大長編であり、これまた、じっくりと時間を掛けて読んでおきたい作品であろう。
なお、『カラマーゾフの兄弟』も、漫画版が有るが、フジテレビでドラマ化もされているので、ご興味が有れば、ご覧頂きたい。
トルストイ(1828~1920)については、前回の記事でもご紹介したが、
トルストイといえば、何と言っても、超大作『戦争と平和』である。
『戦争と平和』は、何度も映像化されているが、世界文学史上に残る不朽の名作であり、
今後も、ずっと読み継がれて行くに違いない。
そして、トルストイには、『アンナ・カレーニナ』という名作も有る。
『アンナ・カレーニナ』は、ヒロインの名前がそのまま題名になっているが、
自分の思うがままに生きた、アンナ・カレーニナという女性が主人公である。
トルストイは、『戦争と平和』のナターシャといい、芯の有る、しっかりとした女性を主人公にするのが好きなようだ。
チェーホフ(1860~1904)は、『桜の園』など、数々の名作小説や、多数の戯曲を書いた劇作家であるが、
チェーホフは、主に短編小説の名手として知られている。
大長編ばかりが目立つロシア文学界では異色の存在だが、チェーホフはトルストイとも交流が有り、彼らはお互いに影響を与え合っていた。
という事で、ロシア文学には、本当に凄い作家が目白押しである。
レーピン(1844~1930)は、近代ロシア絵画を代表する画家である。
このブログの、今回の「ロシア・ソ連」と「ウクライナ」の歴史シリーズの記事でも、
既に「イワン雷帝と、その息子」「ナロードニキの逮捕」「アンナ・カレーニナ」といった、数々の絵を、実は既に紹介している。
レーピンの絵は、写実的にして、とても人を惹き付けるような、何とも言えない魅力が有ると、私は思う。
チャイコフスキー(1840~1893)は、『眠りの森の美女』『くるみ割り人形』『白鳥の湖』の「3大バレエ」を作曲し、19世紀ロシア音楽界を代表する巨匠として知られ、未だに日本でも大人気の作曲家であり、
ムソルグスキー(1839~1881)も『展覧会の絵』などを作曲し、チャイコフスキーと同時代に活躍した音楽家である。
という事で、19世紀の「ロシア文化」は、本当に圧倒的に素晴らしく、私も大いに魅了されているが、
「ロシア帝国」は、この後、終焉への道を辿って行く事となる。
(つづく)