1988(昭和63)年10月19日、川崎球場のロッテ-近鉄のダブルヘッダーで、普段「閑古鳥」が鳴いている川崎球場に、ギッシリ超満員の観客が集まった。
当時、近鉄バファローズが、シーズン最終のダブルヘッダーで、ロッテに連勝すれば逆転優勝という状況であり、俄かに川崎球場が注目を集めたのである。
そして、この「10.19決戦」のダブルヘッダーは、球史に残る死闘となり、近鉄の「相手役」となったロッテオリオンズも、思わぬ形で注目を浴びた。
事実上、「昭和」最後の年となった1988(昭和63)年は、パ・リーグが激動の時を迎えた年でもあった。
この年(1988年)、名門球団の南海ホークスが「ダイエー」に、阪急ブレーブスが「オリックス」に、それぞれ「身売り」を発表したのである。
その南海・阪急の「ラストゲーム」の対戦相手となったのが、ロッテであった。
というわけで、今回はその1988(昭和63)年のパ・リーグの激動から話を始める事とする。
そして、1989(平成元)年~1991(平成3)年の「ロッテオリオンズ」最後の3年間を描く。
つまり、今回は「マスコットで振り返るプロ野球史」の「ロッテオリオンズ編」の最終回である。
それでは、ご覧頂こう。
<1988(昭和63)年9月14日…南海ホークス、球団経営権を「ダイエー」に譲渡する事を発表⇒1988(昭和63)年10月15日、南海-近鉄戦で大阪球場での南海ホークス「ラストゲーム」を迎える>
1988(昭和63)年、南海ホークスは、記念すべき「球団創立50周年」イヤーを迎えていた。
しかし、当時の南海は、1978(昭和53)年以降、10年連続Bクラスと低迷し、本拠地・大阪球場の観客動員も苦戦していた。
かつての名門・南海ホークスは、すっかり「斜陽」の球団となって久しかった。
そして、ホークスの親会社・南海電鉄も、球団経営に対する熱意を失っていたのである。
そんな中、1988(昭和63)年のシーズン中から、南海ホークスの「身売り」の話が、マスコミの間でも、しきりと囁かれていたが、
1988(昭和63)年9月14日、南海ホークスは、中内功が一代で築き上げた、スーパーマーケット大手の「ダイエー」に「身売り」をする事が発表された。
そして、南海ホークスは、翌年から本拠地を大阪から福岡へと移転する事も、併せて発表された。
1988(昭和63)年10月15日、大阪球場の南海-近鉄戦が、南海ホークスの本拠地・大阪球場での「ラストゲーム」となった。
この試合、南海ホークスとの別れを惜しむファンで、大阪球場は久し振りの超満員となったが、
南海が、当時、西武ライオンズと激しい優勝争いを繰り広げていた近鉄を6-4で破り、「有終の美」を飾った。
試合後のセレモニーで、南海・杉浦忠監督は「長い間、ご声援有り難うございました。行ってまいります」と挨拶し、ホークスが福岡の地へ飛び立つという事を、ファンに伝えた。
<1988(昭和63)年10月19日…ロッテ-近鉄の「10.19決戦」の当日に、阪急ブレーブスが「オリエント・リース(オリックス)」への「身売り」を電撃発表>
一方、阪急ブレーブスの方はと言えば、阪急は宝塚歌劇団や東宝映画も含む「大阪急」グループが所有している球団であり、
1984(昭和59)年のリーグ優勝以降、やや成績は下降気味だったとはいえ、まだまだ球団経営は安泰だと、誰もが思っていた。
1988(昭和63)年のシーズン中から、しきりに「身売り」話が囁かれていた南海とは違い、阪急には全く、そのような噂などは無かった。
ところが、前述の南海ホークスの大阪球場「ラストゲーム」の4日後、
1988(昭和63)年10月19日、川崎球場のロッテ-近鉄の「10.19決戦」の、まさに当日に、
阪急ブレーブスが「オリエント・リース(オリックス)」なる会社へ「身売り」するという事が電撃発表され、世間に衝撃を与えた。
実は、阪急ブレーブスの球団経営の状態も思わしくはなく、親会社・阪急の経営を圧迫していたのであった。
「宝塚かブレーブスか、どちらかを手放さないと、阪急は持たない」
というような状態だったようである。
そこで、阪急はブレーブスを手放し、「宝塚歌劇団」を存続させる事を選んだ。
そして、ブレーブスの球団経営は「オリックス」に譲渡される事になったのである。
翌日の新聞には、ロッテ-近鉄の「10.19決戦」と共に、
「阪急ブレーブスのオリックスへの身売り」という衝撃的なニュースに、大きく紙面を割いていた。
こうして、1988(昭和63)年は、「南海ホークス」「阪急ブレーブス」という、パ・リーグの2つの名門球団が、相次いで「身売り」をするという、「パ・リーグ激動の年」になったのである。
<1988(昭和63)年10月20日…川崎球場のロッテ-南海戦が、南海ホークスの「本当のラストゲーム」>
衝撃の「10.19」の翌日、川崎球場でロッテ-南海戦が行われた。
ギッシリ超満員だった、前日(1988/10/19)のロッテ-近鉄のダブルヘッダーとは打って変わって、
この日(1988/10/20)の川崎球場の観客は8,000人と、やや寂しいものだったが、この試合こそが、名門・南海ホークスにとって、最後の公式戦であり、南海ホークスの「本当のラストゲーム」となった。
試合は、南海が3-5でロッテに敗れ、「有終の美」を飾る事は出来なかったが、この日、川崎球場に駆け付けた南海ファンは、南海ホークス最後の雄姿を、その目に焼き付けていた。
<1988(昭和63)年10月23日…西宮球場の阪急-ロッテ戦で、名門・阪急ブレーブスの「ラストゲーム」を迎える⇒「高沢秀昭(ロッテ)VS松永浩美(阪急」の首位打者争いは、僅か1厘差で高沢に軍配~松永はロッテ投手陣に「11打席連続四球」で勝負を避けられる>
それから3日後、西宮球場の阪急-ロッテ戦が、名門・阪急ブレーブスの「ラストゲーム」となった。
つまり、ロッテオリオンズは、奇しくも、南海ホークスと阪急ブレーブスという、2つの名門球団の「ラストゲーム」の対戦球団だったのである。
なお、この試合は阪急が7-1でロッテを破り、「有終の美」を飾った。
なお、1988(昭和63)年のパ・リーグは、高沢秀昭(ロッテ)と松永浩美(阪急)が、
シーズン終盤まで、激しい「首位打者」争いを繰り広げたが、最後は高沢秀昭が打率.327、松永浩美が打率.326で、
僅か1厘差で高沢に軍配が上がり、高沢が「首位打者」を獲得した。
このシーズンは、最後は阪急-ロッテのの3連戦だったが、高沢が1厘差でリードした状況で、高沢は試合を欠場、
ロッテ投手陣が松永に対し、「11打席連続四球」と、徹底的に勝負を避け、高沢の「首位打者」が確定した。
日本のプロ野球では、シーズン終盤の「タイトル争い」で、しばしば、このような露骨な「敬遠攻め」が見られるが、この時も、何とも後味の悪い結末となってしまった。
ともあれ、こうしてパ・リーグ激動の1988(昭和63)年は、幕を閉じて行った。
<1989(平成元)年…昭和天皇が崩御し、「昭和」の幕が閉じ、「平成」の幕が開ける~南海ホークス⇒「福岡ダイエーホークス」、阪急ブレーブス⇒「オリックスブレーブス」として、新たな歴史が始まる>
1989(昭和64)年1月7日、昭和天皇が享年87歳で崩御した。
これにより、激動の「昭和」の時代が幕を閉じる事となり、
皇太子・明仁親王が翌1月8日に、直ちに新天皇として即位する事となった。
そして、その日(1989/1/7)の内に、内閣官房長官を務めていた小渕恵三により、
「昭和」に代わる新元号「平成」が発表された。
1989(平成元)年1月8日、新たな時代「平成」が幕を開けた。
この「平成元年」は、パ・リーグにとっても、新たな時代の幕開けでもあった。
前述の通り、南海ホークスは、大手スーパーマーケット「ダイエー」に「身売り」し、
本拠地を大阪から福岡へ移転して、球団名を「福岡ダイエーホークス」へと改称した。
「マスコットで振り返るプロ野球史」の「ロッテオリオンズ編」の、以前の記事でも書いたが、実は一時期、ロッテが福岡へ本拠地を移転する可能性も有ったが、結果として、福岡へ本拠地を移転したのは、オリオンズではなく、ホークスという結果になった。
以後、ホークスは福岡の地に根を下ろし、2004(平成16)年に親会社が「ソフトバンク」に変わって以降も、福岡の球団として活動し続けている。
一方、阪急ブレーブスも「オリックス」へ「身売り」し、球団名は「オリックスブレーブス」へと改称されたが、
引き続き、本拠地は阪急時代と同じ西宮球場が使用された。
だが、「オリックスブレーブス」の時代は僅か2年しか続かず、後に本拠地は神戸へと移転される事となる。
<1989(平成元)年のロッテオリオンズ①…「マサカリ投法」村田兆治、遂に「通算200勝」を達成!!~この年(1989年)村田は「最優秀防御率」を獲得>
さて、1989(平成元)年のロッテオリオンズは、まずは「マサカリ投法」村田兆治の「通算200勝」への挑戦から、幕を開けた。
村田は、前年(1988年)まで「通算198勝160敗」という成績であり、「通算200勝」まで、あと2勝に迫っていた。
1989(平成元)年4月9日、西武球場の西武-ロッテ戦で、開幕投手を務めた村田は、西武に対し5安打完封勝利を挙げた。
これで、村田兆治は「通算199勝」となり、遂に「通算200勝」に「王手」を掛けた。
1989(平成元)年4月16日、川崎球場のロッテ-近鉄戦に、村田は「通算200勝」を懸け、マウンドに上がった。
この試合は、村田の「通算200勝」の瞬間を一目見ようと、何と川崎球場はギッシリ超満員の観客で埋まった。
スタンドには、村田の夫人・淑子さんや、村田に「トミー・ジョン手術」を行なった、フランク・ジョーブ博士の姿も有った。
この試合は、日本テレビで急遽、生中継されたが、当時、小学生だった私も、この試合はテレビで見ていた記憶が有る。
私も、村田の「通算200勝」達成を願い、テレビの前で村田に声援を送っていた。
だが、この試合は、村田も延長11回を完投するという力投を見せたものの、
延長11回表に近鉄に1点を奪われ、村田の力投虚しく、ロッテは6-7で近鉄に敗れ、村田は惜しくも「通算200勝」を逃した。
だが、この試合を見て、私は村田兆治という投手の虜になった。
私は、村田の「通算200勝」達成を願う、「村田ファン」になってしまったのである。
その後も、村田の足踏みは続いたが、遂に「その時」は訪れた。
1989(平成元)年5月13日、山形県野球場の日本ハム-ロッテ戦で、
村田兆治は7-5で完投勝利を挙げ、遂に「通算200勝」を達成したのである。
あの「トミー・ジョン手術」を乗り越え、「サンデー兆治」の劇的な復活を経て、苦難の末に辿り着いた、感動的な「通算200勝」達成であった。
なお、この試合はテレビ朝日で生中継されていたが、勿論、私はこの試合もテレビで見ていた。
こうして、偉大なる大投手・村田兆治は「通算200勝」に辿り着き、この年(1989年)、当時39歳にして、3度目の「最優秀防御率」のタイトルも獲得した(22試合 16完投3完封 7勝9敗 防御率2.50)。
<1989(平成元)年のロッテオリオンズ②…「ランボー」マイク・ディアズの大活躍&愛甲猛が初の「打率3割」&西村徳文が「4年連続盗塁王」&伊良部秀輝が清原和博(西武)との対決で「時速156km」を記録&前田幸長の入団~しかし、ロッテは「48勝74敗3分 勝率.393」で「2年連続最下位」に終わり、有藤監督は退陣>
さてさて、1989(平成元)年のロッテオリオンズは、有藤道世監督就任3年目のシーズンであった。
「有藤ロッテ」は、「5位」(1987年)⇒「最下位」(1988年)と、2年連続Bクラスに沈んでいたが、
「平成」最初のシーズンでは、巻き返しを図っていた。
1989(平成元)年の西武-ロッテの開幕戦は、前述の通り、村田が完封勝利を挙げ、ロッテは幸先良いスタートを切ったかに見えた。
だが、その後、この年(1989年)のロッテは終始、苦戦が続いた。
この年(1989年)、ロッテに入団したのが、ハリウッドの大スター、シルベスター・スタローンにソックリな(?)、マイク・ディアズである。
ディアズは、その風貌から「ランボー」という異名を取ったが、迫力タップリの外見同様、ディアズはバッティングも素晴らしく、
この年(1989年)、ディアズは打率.301 39本塁打 105打点と、「3割、30本、100打点」という好成績を残した。
あの「リー兄弟」以来、ロッテとしては、久々の「大当たり」の外国人選手であった。
ディアズといえば、バッティングだけではなく、「乱闘」でも「暴れん坊」ぶりを見せた。
この年(1989年)4月23日、仙台宮城球場のロッテ-ダイエー戦で、山内和宏(ダイエー)から受けた死球に激昂したディアズは、
マウンドに突進し、山内を引きずり倒したが、これをキッカケに、両軍入り乱れての大乱闘となった。
こうして、ディアズは大立ち回りを演じ、日本プロ野球の「平成初」の「乱闘」劇の主役となり、ディアズは退場処分を受けた。
同年(1989年)9月23日、西武球場の西武-ロッテ戦で、
清原和博(西武)が、平沼定晴(ロッテ)からの死球に激怒し、平沼に向かってバットを放り投げ、そのまま平沼に突進し「ジャンピング・ニーアタック」を食らわした後、逃走しようとしたが、その清原に向かって、ロッテベンチから真っ先に飛び出し、清原を捕まえ、ヘッドロックをかけたのは、あのディアズであった。
またしても、ディアズは「乱闘」劇の主役となったが、ディアズは本当に「暴れん坊」の名に相応しかった。
この年(1989年)、打者転向5年目を迎えた愛甲猛は、完全に「打撃開眼」し、
愛甲は打率.303 13本塁打 65打点と、初の「打率3割」を記録した。
愛甲は、ディアズと並び、ロッテ打線の中核を担い、「ロッテの顔」となっていた。
西村徳文は、「42盗塁」を記録し、これで「4年連続盗塁王」という快挙を達成した。
西村は、ロッテの「スピードスター」として大活躍したが、如何せん、これだけ活躍しても、
ロッテという球団自体が地味な存在であり、西村の一般的な知名度は今一つであった。
だが、西村が素晴らしい選手であるという事は、間違いない。
この年(1989年)入団2年目の伊良部秀輝は、清原和博(西武)との対決で、
当時、日本プロ野球史上最速の「時速156km」の球速を記録した。
後に「伊良部VS清原」は、「平成の名勝負」と称される事となるが、剛速球を投げる投手と、ホームラン打者との真剣勝負は、いつの世もファンを魅了するものである。
1988(昭和63)年夏の甲子園で、エース・前田幸長と、「九州のバース」と称された、主砲・山之内健一を擁する、福岡第一高校は、
決勝で広島商に敗れたものの、夏の甲子園準優勝を果たし、前田と山之内は、プロ野球のスカウトが注目する存在となっていた。
細身の前田と、巨漢の山之内は、対照的な見た目の「凸凹コンビ」として、高校野球ファンの人気者であった。
そして、同年(1988年)のドラフト会議で、前田幸長はロッテから「ドラフト1位」、山之内健一はダイエーから「ドラフト5位」で指名され、
前田はロッテ、山之内はダイエーに、それぞれ入団した。
その後、前田はロッテ-中日-巨人で、息長く活躍したが、山之内は残念ながら、プロでは大成出来ず、前田と山之内は、プロ野球の世界では対照的な結果となった。
この年(1989年)、ロッテは「48勝74敗3分 勝率.393」で「2年連続最下位」に低迷し、
有藤監督は、無念にも、この年(1989年)限りで退陣となった。
「ミスター・ロッテ」は、現役引退後すぐに、ロッテの監督となったが、残念ながら、監督としては結果を残す事は出来なかった。
<1989(平成元)年シーズンオフ…有藤監督が退陣し、金田正一が12年振りにロッテ監督に復帰!!>
1989(平成元)年シーズンオフ、有藤監督が退任し、
あの「カネやん」こと金田正一が、12年振りにロッテ監督に復帰した。
かつての「カネやんロッテ」は、人気チームであり、金田監督はロッテを日本一にも導いたが、
ロッテとしては「夢よ、もう一度」という思いは有ったのかもしれない。
こうして、「第2期カネやんロッテ時代」が幕を開けたが、それは「ロッテオリオンズ」最後の時代でもあった。
<観客が少ない事を逆手に取り(?)ウケ狙いの観客が目立った川崎球場~テレビの「珍プレー好プレー」でも、すっかりネタ化される>
ところで、ロッテの本拠地・川崎球場は、相変わらず観客が少なく、スタンドには常に「閑古鳥」が鳴いていたが、
この頃になると、川崎球場に来る人達も、すっかり開き直り(?)、観客の少なさを逆手に取って(?)、様々な事をやり始めた。
例えば、川崎球場の観客席で、「流しそうめん」をしたりしていたが、これは観客が少ない川崎球場でなければ、絶対に出来ない事である。
また、試合そっちのけで、スタンドで麻雀に興じる者も居た。
テレビ局も、そういった川崎球場の光景を、面白おかしく取り上げるようになり、
そうなると、悪乗りして、川崎球場のスタンドで、大学の演劇部が演劇の稽古をしたりとか、
およそ、プロ野球チームの本拠地球場とは思えないような光景が、そこには有った。
川崎球場は、テレビの「珍プレー好プレー」でも、すっかりネタ化されるようになっていた。
(※今なら、SNSや動画サイトの、恰好のネタになったであろう)
今思えば、何とも長閑(のどか)な、古き良き時代ではあった。
<1990(平成2)年のロッテオリオンズ①…金田監督が「大暴れ」するも、戦力不足は否めず、「57勝71敗2分 勝率.445」で「5位」に終わる~ディアズが2年連続「打率3割、30本塁打、100打点」&西村徳文は初の「首位打者」獲得&愛甲猛は初の「20本塁打」&初芝清が台頭し&小宮山悟が入団>
1990(平成2)年、金田正一が12年振りに監督に復帰したロッテであるが、
結論から先に言うと、ロッテは投打共に戦力不足は否めず、「57勝71敗2分 勝率.445」で「5位」に終わり、
新監督・田淵幸一が率いるダイエーがダントツ最下位に沈んだ事に助けられ、ロッテは最下位を免れるのが、やっとであった。
1990(平成2)年6月23日、西武球場の西武-ロッテ戦で、園川一美投手の「ボーク」判定を巡り、金田監督は審判に殴る蹴るの暴行を加え、退場処分を受け、「出場停止1ヶ月」という、重い処分を受けたが、金田監督には、チームが思うように勝てない苛立ちが有ったのかもしれない。
そんな中、2年目のディアズは、この年(1990年)も打率.311 33本塁打 101打点という成績を残し、
2年連続で「打率3割、30本塁打、100打点」という大活躍を見せた。
ディアズは、この時期のパ・リーグを代表する強打者であった。
西村徳文は、この年(1990年)、それまで4年連続で獲得していた「盗塁王」のタイトルを逃したものの、
打率.338で、西村は初の「首位打者」を獲得し、好打者ぶりに磨きをかけた。
また、愛甲猛は打率.243 21本塁打 72打点と、打率こそ前年(1989年)を大幅に下回ったが、初の「20本塁打」を記録した。
また、この年(1990年)、初芝清が、「1試合3本塁打」を放つなど、
打率.265 18本塁打 65打点という成績を残し、ロッテ期待の若手として、一気に台頭した。
なお、当時の初芝の背番号は「0」である。
この年(1990年)、早稲田大学のエース・小宮山悟がロッテに入団した。
小宮山は「二浪」して早稲田に入っていたため、ロッテ入団当時は既に25歳だったが、
この年(1990年)、小宮山は新人ながら、6勝10敗 防御率.3.27の成績を残し、早くもロッテの投手陣の一角を担った。
<1990(平成2)年のロッテオリオンズ②…大投手・村田兆治が遂に現役引退>
そして、この年(1990年)限りで、村田兆治が遂に現役引退した。
ラストシーズンの村田兆治の成績は「10勝8敗2セーブ 防御率4.51」と、「2桁勝利」を記録し、
同年(1990年)10月13日、引退試合となった、川崎球場の西武-ロッテ戦は、5回降雨コールドながら、村田は「完封勝利」を挙げ、「有終の美」を飾った。
村田兆治の通算成績は「604試合 184完投36完封 215勝177敗33セーブ 防御率3.24」であった。
<1991(平成3)年のロッテオリオンズ①~川崎球場が大改修され、「テレビじゃ見れない川崎劇場」をアピール!!>
1991(平成3)年、川崎球場は、それまでの「汚い、暗い、狭い」というイメージを払拭するため、「大改修」を行なった。
スコアボードは電光掲示板に変えられ、それまでの土のグラウンドから全面人工芝となり、観客席も全て新しい椅子に取り替えられた。
そして、ロッテの試合が滅多にテレビ中継されない事を逆手に取り、
「テレビじゃ見れない川崎劇場」
という、素晴らしいキャッチコピーで、生まれ変わった川崎球場を全面的にアピールし、テレビCMも大量に流した。
その効果が有り、川崎球場の観客動員も増加したが、実は当時、ロッテは川崎球場を出て行くという噂が有り、ロッテを引き止めるため、川崎市がお金を出し、この「大改修」を行なった。
だが、ロッテが「川崎劇場」の舞台上で躍動する時間は、あまりにも短かった。
<1991(平成3)年のロッテオリオンズ②…「48勝77敗5分」でロッテは「最下位」~結局、この年(1991年)限りでロッテは川崎球場から撤退し、「千葉マリンスタジアム」への移転を発表~堀幸一が4番打者として台頭、平井光親が松永浩美(オリックス)との激闘を制し、「首位打者」獲得~新エース・小宮山悟は、ロッテの「9連敗」を2度ストップさせる、孤軍奮闘の力投>
まず、結論から先に書く。
この年(1991年)、金田監督就任2年目のロッテは「48勝77敗5分」で、「最下位」に終わった。
「川崎劇場」という、素晴らしい舞台は揃ったが、やはり「役者不足」の感は否めなかった。
この年(1991年)も、金田監督は「大暴れ」であった。
1991(平成3)年5月19日、秋田八橋球場のロッテ-近鉄戦で、園川一美からの死球に激昂したトレーバー(近鉄)が大乱闘を起こしたが、
ロッテベンチに突進して来たトレーバーが転倒した所で、金田監督が足でトレーバーを蹴ったのである。
この場面は、フジテレビ「珍プレー好プレー大賞」を獲得した。
やはり、いつの時代も、ロッテの主役は金田監督という事であろうか。
この年(1991年)、ロッテの4番に座ったのは、堀幸一である。
堀は、金田監督曰く「12球団で一番給料が安い4番打者」だったが、
この年(1991年)、堀は打率.284 20本塁打 69打点という成績を残し、4番の重責を果たした。
この年(1991年)、平井光親(ロッテ)と松永浩美(オリックス)が、シーズン最後の最後まで、激しい「首位打者」争いを繰り広げたが、最終的には、
平井光親(ロッテ) 打率.3144
松永浩美(オリックス) 打率.3140
と、僅か「4毛差」で、平井に軍配が上がり、平井が初の「首位打者」を獲得した。
松永は、またしてもロッテの選手に僅かに及ばず、惜しくも「首位打者」のタイトルを逃した。
ロッテ入団2年目の小宮山悟は、この年(1991年)、開幕投手を務め、
10勝16敗 防御率3.95という成績を残したが、小宮山は、ロッテの「9連敗」を2度も止めるなど、まさに「エース」の役割を果たした。
チームが苦しい時こそ、チームを救ってくれる投手がエースだとすれば、まさに小宮山はその条件にピッタリであった。
こうして、1991(平成3)年のロッテオリオンズは、「川崎劇場」での奮闘虚しく、「最下位」に終わったが、
結局、ロッテは翌1992(平成4)年から、新天地・千葉マリンスタジアムへと移転する事を発表した。
ロッテの一つの時代が終わり、また新たな時代が始まろうとしていた。
<1991(平成3)年10月17日…さらば「川崎劇場」、さらば「ロッテオリオンズ」~42年間の「オリオンズ」の歴史に幕>
1991(平成3)年10月17日、川崎球場のロッテ-ダイエーのダブルヘッダーが、
ロッテの「川崎球場」のラストゲームとなった。
そして、ロッテオリオンズは、今シーズン限りで「オリオンズ」というチーム名も改称する事となっており、「オリオンズ」のラストゲームともなった。
この日(1991/10/17)、川崎球場とオリオンズに別れを告げるべく、「川崎劇場」には超満員の観客が集まった。
この日、試合中から、あいにくの雨模様となったが、そんな事は関係無く、
川崎球場は超満員の観客で、大盛り上がりであった。
もっと早く、これだけの観客が来ていれば…とも思われたが、最後だからこそ、お客さんが沢山来たという事であろうか。
ロッテ-ダイエーのダブルヘッダーは、ロッテが7-3、5-4でダイエーに連勝し、「有終の美」を飾った。
試合後のセレモニーで、金田監督は「私の野球人生で、今日ほど感極まった日はございません!!皆様、ご声援、有り難うございました!!」と挨拶し、ファンに別れを告げた。
こうして、「ロッテオリオンズ」の時代が、静かに幕を閉じて行き、「オリオンズ」42年間の歴史に終止符が打たれた。
(「マスコットで振り返りプロ野球史」・「ロッテオリオンズ編」完~「千葉ロッテマリーンズ編」へ、つづく)