『竜馬がゆく』『国盗り物語』『燃えよ剣』『坂の上の雲』など、
数々の歴史小説の名作を残した司馬遼太郎は、
『街道をゆく』という紀行文シリーズも残している。
『街道をゆく』で、司馬遼太郎は日本国内の各地や、海外にまで足を延ばし、
その土地の歴史的背景などの考察も含め、とても味わい深い紀行文を書いている。
私は、司馬遼太郎のファンであり、『街道をゆく』のシリーズも大好きで、愛読しているのだが、
その司馬遼太郎の真似ではないが、東京六大学の各校を訪ね、それを文章にしてみようという事を思い付いた。
高校3年生の時に、東大も含め、東京六大学の各校の学校見学に行き、
その時に初めて目にした、法政大学の55・58年館に強い印象を受け、
それが、私の法政大学への入学のキッカケになったという事は、既に述べたが、
また改めて、東京六大学の各校を訪ねてみたいと思っている次第である。
というわけで、まずは手始めとして、我が母校・法政大学について、描いてみたい。
<法政大学発祥の地は、明治大学のすぐ近くに有った!!>
法政大学の前身・東京法学社は、1880(明治13)年に、金丸鉄、伊藤修、薩埵(さった)正邦らにより、創立された。
創立当時の東京法学社は、東京駿河台北甲賀町19番地に創立されたが、
これは、現在の御茶ノ水駅の近く、明治大学の校舎から見て、道を挟んだ反対側の位置にあたる。
つまり、現在の明治の校舎と、創立当時の法政の校舎は、本当にすぐ近くに有るわけだが、
この事は、法政と明治が、その創立当初から、非常に近い関係にあり、兄弟分と言っても良い間柄である事を、端的に示している。
その事については、後に記すとして、
JR御茶ノ水駅の、御茶ノ水橋口を出ると、目の前には「明大通り」という名の大通りが有る。
御茶ノ水橋口を出て左折し、「明大通り」を真っすぐに進むと、
道の両側には、沢山の楽器屋が並んでいるが、これは昔からの名物である。
御茶ノ水駅前は、音楽好きの学生や若者達で賑わっており、
楽器を買うなら、御茶ノ水という文化が、昔から有るようである。
「明大通り」の、楽器店が軒を連ねている辺りを抜けると、右手の前方に、明治大学のリバティタワーが見えて来るが、
明治大学のリバティタワーは、御茶ノ水界隈では最も高い建物であり、とても目立つ建造物である。
そのリバティタワーの手前に、明治大学の大学会館などが建つ敷地が有るが、
その大学会館を挟んで、「明大通り」の反対側に有るのが、前述の、「法政大学発祥の地」の石碑である。
そんな所に、法政発祥の地という石碑が有るというのは、果たして、明治の学生の一体どれぐらいが気付いているのであろうか?
(「日本近代法の父」と称される、ボアソナード博士)
それはともかく、今回の主題は明治大学の事ではないので、法政大学の事に話を戻すと、
何故、法政と明治が、こんなに近い場所に有ったのかといえば、
元々、法政と明治は、明治時代初期に、明治政府が近代法を整備する際に、民法を起草するにあたり、
人々の「権利」や「自由」を重んじるフランス法を基礎とすべし、という考え方の一派として、盟友関係にあったからである。
そのフランス法派の大ボスとも言うべき存在が、ボアソナード博士であった。
<江藤新平に招かれ、日本にやって来たボアソナード>
(法政大学に有る、ボアソナードの胸像)
明治時代初期、急速に近代化を進める明治政府は、
「外国に、追い付け、追い越せ」をモットーとして、
外国から、各分野の専門家を、高い報酬を払い、その道の先生として招聘した。
そして、来日した各分野の専門家達は、日本の未来を担うべき学生達に、
自らの専門分野について、教育したが、これが、日本史の教科書にも必ず出てくる、所謂「お雇い外国人」である。
「お雇い外国人」から教えを受けたのは、東京帝国大学(東大)を中心とする、エリート学生達であり、
明治政府は、言わば突貫工事で、国の将来を背負うエリート達に、速習で専門分野を学ばせようとしたわけだ。
パリ大学法学部の教授だった、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードも、
そんな「お雇い外国人」の一人で、言わば法律家のプロとして、明治政府に招かれた人物だった。
ボアソナードは、1873(明治6)年に来日したが、これは、前年(1872年)に新設されたばかりの司法省のトップ・江藤新平司法卿の招きに応じたものであった。
そして、日本にやって来たボアソナードは、司法省に入る役人を育てるための官立学校・司法省学校の教授に就任したのだが、
ボアソナードを招聘した張本人・江藤新平は、翌1874(明治7)年、政府と対立して下野してしまい、「佐賀の乱」を起こして敗北、
結局、政府軍に捕らえられ、斬首刑となってしまった。
(西南戦争に敗れ、自害した西郷隆盛)
そして、1877(明治10)年には、明治維新の英雄で、1873(明治6)年に、江藤新平らと共に下野していた、
「西郷どん」こと西郷隆盛が、鹿児島の不平士族達に担ぎ上げられ、「西南戦争」を起こしたが、政府軍に敗れ、自害に追い込まれた。
このように、当時の日本は、近代化の途上にあり、まだまだ騒然とした時代であったが、
ボアソナードは、そのような大変な時代に日本にやって来て、日本の若者達に、法律の何たるかを教えていたのだった。
<ボアソナード、近代法を整備。そして、法政大学・明治大学・関西大学の「生みの親」に>
(自由民権運動の中心人物・板垣退助)
1873(明治6)年、江藤新平や西郷隆盛らと共に下野した板垣退助は、
政府に対し、憲法の制定や、国会の開設、言論・集会の自由などを求めた、自由民権運動の中心人物となった。
当時は、明治維新の中心となった、薩摩や長州出身の人間が、政府の中心を占めており、
彼らの独善的な姿勢が、しばしば反感を買っていたが、
前述の、「佐賀の乱」や「西南戦争」の原因も、そうした政府への不満が、根底にあった。
板垣退助は、そのような武力による反乱ではなく、
言論によって、政府と対峙して行こうと考えたのである。
当時は、日本に近代法というものが無く、法律の整備は急務となっていた。
早く、法律を整備しなければ、このような騒然とした状況は、なかなか収まらないのは必定であった。
そこで、明治政府は、法律の専門家であるボアソナードに、法律整備の中心的役割を担ってもらおうと考えたが、
ボアソナードは快くそれを引き受け、まずは刑法と治罪法(現在の刑事訴訟法)を整備し、
その後、民法の整備へと着手した。
ここで、冒頭で述べた、法政の創立者の一人、薩埵(さった)正邦という人物が登場して来るわけだが、
薩埵(さった)正邦は、京都の法学校で、フランス語を学び、その後、ボアソナードの通訳を務め、
ボアソナードに大いに気に入られ、ボアソナードの内弟子となった男であった。
その薩埵(さった)正邦が、彼の仲間である金丸鉄、伊藤修らと共に、東京法学社を創立した際に、
恩師であるボアソナードに、設立資金を援助してもらったばかりか、ボアソナードは、創立間もない東京法学社で、講義まで引き受けてくれた。
そのため、東京法学社は、「ボアソナードの法学校」とまで称されたが、言わば、ボアソナードの可愛い内弟子が作った学校でもあり、その呼び名も当然であっただろう。
(創立当時の、明治法律学校(現・明治大学))
そして、翌1881(明治13)年には、
これまた、司法省学校で、ボアソナードに教えを受けた生徒である、岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操らが、
明治法律学校(後の明治大学)を創立した。
このような創立の経緯から、東京法学社と明治法律学校は、当然の事ながら、フランス法の教育を中心に据え、
フランス法を推進する、中心的存在となって行った。
また、1886(明治19)年には、東京法学社の教官の一人・堀田正忠が、
大阪に移住した後、かつての緒方洪庵の「適塾」の関係者らと共に、
関西法律学校(後の、関西大学)を創立した。
なお、堀田正忠もまた、ボアソナードの内弟子の一人であったが、
上記の経緯から見ても明らかな通り、法政大学、明治大学、関西大学は、いずれもボアソナードの教え子達が作った、言わば兄弟分だったわけである。
<法政VS明治のライバル関係は、創立当時からの必然だった!!>
という事で、現在、東京六大学野球の「血の法明戦」で、鎬を削るライバル同士である、法政と明治は、
まさに、血を分けた兄弟であると言って良い。
だからこそ、法明戦は、お互いに絶対に負けられない戦いとして、毎回盛り上がるわけである。
そこには、両校の創立当時からの、長い歴史の積み重ねが有った。
そして、2000(平成12)年に竣工された、法政の新しい高層ビルの校舎の名称が、
「ボアソナードタワー」と名付けられたのも、至極当然であるという事が、おわかり頂けたのではないだろうか。
ちなみに、明治のリバティタワーの竣工は1998(平成10)年であり、
法政のボアソナードタワーの竣工は、それから2年後の2000(平成12)年の事であった。
そして、法政大学の市ヶ谷キャンパスで、かつての学生会館が取り壊され、
その跡地に建てられた外濠校舎が2007(平成19)年に竣工されたが、
その外濠校舎の6階に有る多目的ホールの名称は、「薩埵(さった)ホール」である。
昨年(2018)年秋、法政が東京六大学野球で優勝した際の優勝祝賀会も、
この「薩埵(さった)ホール」で開催された。
薩埵(さった)正邦もまた、ボアソナードと並び、
法政の歴史を語る上では欠かせない人物として、現在の法政の校舎にも、その名を残しているのである。
(つづく)