第四十三話
この頃、学生のアルバイト二人を雇って営業していたのですが、だんだんその二人が成長してきて、暇な時間に近くにある師匠の店を訪れたり、晩飯を食べに出たり、少しなら店を任せられるようになりました。
店を始めることを決めて行ったヨーロッパ一人旅以降、ほとんど旅行へもいっていなかったので、たまたまテレビのJR東海のコマーシャルで立山黒部アルペンルートの花が咲き乱れる美しい景色の映像が流れていたので、どうしても行きたくなり、アルバイトスタッフに店を数日任せられるように鍛えて、ゴールデンウィーク明けの閑散期に4日ほど店を任せて立山の室堂山荘を予約して行きました。
何かあった時に連絡がつくようにと、頑なに拒んでいた携帯電話をとうとう買いました。
そしていざ立山についてみると一面雪景色で、春スキーを楽しむ人がスキーウェアで沢山来ていました。
私は美しいお花畑でのんびりと読書をしようと思っていたので、ジーンズと軽いジャケットにスニーカーでバスに乗り込みました。
ところが20数メートルの雪の壁の中をどんどん登っていき、頂上に着いたところはまさにスキー場。
「どこが一面花景色やねん。」とCMに一人で突っ込みを入れながら、宿を探しました。
宿の場所を聞くと、雪の中を数百メートル歩いていったところにあるというので、膝上まである雪に足を取られながら室堂山荘へ行きました。
そんな軽装で来ているのは私だけで、みんなスキーヤーでした。
せっかく買った携帯電話も圏外で一切使えず外は銀世界で何もできず、ひたすら部屋で読書にふけっていました。
食事も合宿所レベルの粗食でお風呂も小さな温泉で、アメフト時代の夏合宿を思い出しました。
夜になると悪魔のような鳴き声が響き、何かと思って外を見てみると、月明かりで青白く見える立山が神々しく、感動的でした。
その不思議な鳴き声は雷鳥の鳴き声でした。
普段バタバタとした生活に慣れていたので、こんなにゆっくりと時間が流れる体験は貴重で、持って行っていた小説も3冊読み終わってちょっと贅沢な時間を過ごしました。
昼間はトロッコ列車やゴンドラやトンネルの中を走るバスに乗って黒部峡谷を見て回り、黒部ダムのスケールに感動し、トレッキングルートを散策し、自然を満喫しました。
私もスキーは大学時代に友人に誘われて毎年行っていたので、そこそこ滑れるようになっていたのですが、立山の絶壁をリックを背負って滑り降りてくるスキーヤーの見事さには驚きました。
店の事は少し心配でしたが、電話が繋がらないので考えるのを諦めて楽しむことにしました。
一人であんなにゆっくりと過ごしたのはとても良い経験になりました。
何も出来ない、連絡も出来ない場所に身を置くというのもたまにはいいものですね。
4日ぶりに店に帰って来て様子を聞くと、別に何事もなく営業できていたみたいで、いつもの常連さん達と私の悪口を言いながら酒を飲んで楽しんでいたようでした。
それ以来旅が一番の趣味になり、店を任せて旅に行ける状態を作るのが人材育成の基本になっていました。