地上の地獄 四.妊娠 | 正しい人の喰い方マニュアル

地上の地獄 四.妊娠

四.妊娠

 親父が北朝鮮に戻った事に対し、親父の弟、つまり俺の叔父にあたる人間は親父から無償で事業を引き継ぎ、永久的に北朝鮮に援助を行う事を約束していた。別段反故にしても叔父が困る事は無いと思うが、親父と叔父の仲は相当良かったらしい。毎月の交換手紙の主が親父から俺に代わっても、北朝鮮の飢餓や国際情勢を憂い、荷物を送ることを決して途絶えさせようとはしなかった。

 無論理由は仲が良かったからだけでは無いと思う。将来的に国交が回復次第俺は日本に戻る予定であったし、その際は凍結してある親父の財産が日の芽を見る事になる。そうすれば事業を起こしている叔父にも当然メリットがあった筈だ。

 更に言えばもしかしたら同じく北朝鮮出身である叔父も最後は父同様故郷の地で死にたいと思っていたのかもしれない。ともあれ、親身な手紙は異国に暮らす俺の一つの支えになっていたし、何より年の近い叔父の息子とも文通するようになってからは更に手紙を書く楽しみも増えて行った。

「アツシ君どうだい。そろそろ僕たちもそちらに移住した方がいいかね」
「そうですねえ。芳樹がおじいちゃんになった頃、来たらいいんじゃないんですか?」

 俺が書く手紙は北朝鮮の人間に閲覧されていると考えた方がいい。真実を直接書くのは自殺行為だった。芳樹とは俺と同い年にあたる従兄弟の事である。

「従兄弟がおじいさんになったら」

 と言う事は、絶対来るなという同意義の意味合いになるのでは無いだろうか。もし面倒くさいからと真実を文面に手を抜くとうっかり強制収容所に入れられでもしたら、本当に目も当てられない事態になってしまう。日本からの手紙はまず紙質から大きく違う。俺は段々擦り切れた藁半紙のような紙で手紙を送るのが恥かしく感じてしまう事があった。

「前略 英妃さんの調子が優れないとの事。心配になり医者に色々と尋ねてみたのですが、一つの答えとして英妃さんが妊娠しているのではないか。と言う結論に達しました。滋養強壮の為にカナダ産のマヌカハニーを送ります。これは妊婦の身体にとても良いとの事です。それから妊娠判定薬も多目に入れておきますので、一度陰性が出ても時間を離してもう一度試験をするようにして下さい。

 ブルーベリーの苗についてはこちらで調べました。こちらとしても北朝鮮の農業を良くするために幾らでも援助は惜しまないつもりです。
苗を準備する事は可能なのですが、移動をさせる場合は冬場よりも春の方が向いているようです。春に日本を出荷して夏に北朝鮮でたくさんの実が出来るよう、現在業者の方に三年物の苗木を用意して貰っています。二年経てばとりあえず実が生るようになるそうなのですが、それはあまり量が取れないようなのです。
 根がついたらその後は挿し木で増やす事が出来るそうです。細かい事は後日その時にでも連絡します。
 寒い季節になりましたので新しい冬物のコートと下着なども入れておきます。容態等分りましたら早めに連絡を下さい。遠い国日本であなたたちの幸せを祈っています 草々」


「妊娠?」

 手紙の入っていたダンボールの中には一ダースにも及ぶ蜂蜜の瓶と真新しいコート、米二十キロに薬が詰め込まれていた。これだけ瓶が入っていれば重い訳だ……考えもしなかった答えに戸惑いつつも嫁さんに妊娠判定薬を渡した。使い方は至って簡単。オシッコを所定の位置にかけさえすれば即その上の判定窓に結果が現れる仕組みだ。嫁さんは始めてみる判定薬に迷惑そうな目線を送って居たが、叔父たっての願いと聞き、仕方なさそうにトイレに向って行った。

「私は子供が出来無い体質だって、結婚した時に言ったでしょ」
「それは分っているって。何しろ年寄りの言う事だから。これで安心するんだから安い物だろう」

 トイレの隣に立っているのも何なので、少し離れて結果を待つ。こうした時子供と言うのは非常に便利な生き物だ。何と嫁さんと一緒にトイレに入り、結果に立ち会う事になった。一分も経たずして子供達の悲鳴が聞えた。どっちだ? どっちだったんだ??

「とおちゃん。青くなったよ! 青い線が出た!!」

 と言う事は……

「あなた……もしかして」

 嫁さんは恥かしそうな顔をしてトイレから出て来た。まだ水で濡れている妊娠判定薬をそっと俺の方に見せる。まさか。北朝鮮は夜になると電気が消え、特にそれ以外する事も無くなる。と言う事情もあり、前妻とは大分がんばったつもりだったが、如何せん子供は出来なかった。俺に子種が無い物だとずっと思っていたが……ついに、ついに

「おめでとう。よくやった。これは更に安静にしないと」
「オモニおめでとう! 僕たちも可愛がるからね! 男の子かなあ。女の子でもいいな」

 妊娠の一報は、日本は勿論、電報で義弟の下にも伝えられた。近所中でも大騒ぎであった。祝い事が少ないこの国で、妊娠のニュースと言うのは結婚の次に喜ばしい事であると認識されている。嫁さんは恥かしそうに頬を赤らめる。お祝いをしよう。と夜二人で話し込んで居た時、嫁さんはポツポツ、過去の出来事について語ってくれた。

「結婚の時、あなたは父に「子供が出来なくても構わない。ただずっと側に居て欲しい」と言ってくれたそうですね。本当に嬉しかったです。
 今更告白する事では無いのかも知れませんが……中央で仕事をしていた時、色々と事情があって、複数の男性と関係を持った事があったのです。他の人が妊娠し姿を消して行く中、私は一度も妊娠する事無く、中央を退くその日まで無事生き残る事が出来ました。おそらく一生妊娠できない体質。そのお陰で生きながえる事が出来たのだ。とだからそれは悲しむ事では無くて喜ぶべき事なのだと」

「生き残るって……妊娠したらどうなるんだ」
「分らないです。ただ妊娠と判明したとたん、その人は居なくなってしまうんです」
「そんな……」
「やめましょう。こんな話。ごめんなさい。私は今日ちょっとおかしくなっています」
「いや。俺こそ……信じられない。奇跡だ」
「ありがとう。全てのものに私は今感謝しています」

 北朝鮮で結婚をする場合、女性は処女である事が最低条件だった。結婚前から嫁さんは近所に住んでいた事もあり、中央で何か問題を起こし、実家に戻って来たのだ。と言う話は結婚前から聞かされていた。

 半分、いや全部嘘だとは思うが、嫁さん失脚の際の罰として、散々中央からプレゼントされた電化製品等が全て没収され、実家は金に困っており、適齢期を逃し家族の幸せを奪った嫁さんを中国に売ろうと画策している。と言う話も聞いた事があった。

 失脚したら取られてしまうプレゼントなど何の価値があったのだろう? そしてそう言う物に頼り切っていた家族の方が正義であり、散々家族のために働いて居た人間が、更に家族に対して奉仕をしなければならないのだろうか? どうもその辺の理屈を俺が理解する事は出来なかった。

 その後下世話に幾ら? と人伝いに聞いた事があったが、何と金額は米ドルで二百ドルから三百ドルと言うから、考えてみれば外貨ショップで売られて居る冷蔵庫よりも安い金額である。「年増は安いんだよ」冗談とも本気とも取れない表情で笑う。背筋がぞっとしたがそれ以上追求する事はしなかった。とにかく最初はそうした興味から嫁さんとの縁が始まった。前妻が若くして亡くなった事、日本からの帰国者である事、手間のかかる悪ガキが二人居る事など、通常であればまず再婚は難しい状態の中、もしかしたらそうした女性だったら再婚してくれるかもしれない。その時俺は打算の塊と化していた。

 お互いの条件が合い、もし運良くお互い良い印象で嫌いあわなければ、多少の悪い所は眼を瞑って、いや俺が折れて何とかやっていけたら楽しいのでは無いだろうか。でもブスは厭だなあ……家に閉じ篭りきりだった嫁さんとあったのはそうした噂を聞いた数日後の事だった。一目惚れ、とはああ言う時の事を言うのだろう。前妻とは見合い結婚だったが、農作業を日々手伝い逞しく育った前妻は「美人」と言うよりも「闊達」若しくは「元気」と言った形容詞が似合う女性だった。絶対俺よりも長生きすると思ったが、人間の寿命と言うのは本当に難しいと思う。

 嫁さんはと言うと色からして白く手足はすっと真っ直ぐ伸びており、おおよそ町の人間には見えない程整った顔つきをしていた。美人だからこそ中央に昇り、失脚する事になったのだろうが……この美貌ならば、中央の人間も気が迷う事も頷けた。

 その日はそのまま嫁さんの実父に会い、見合いについて交渉を行った。資金援助を行う事は勿論、帰国者であるが故のメリットなど。又そして嫁さんを大切にする事などを切々と語った。突然の申し出に嫁さんの実父は驚いていたが、数日後見合いを承諾する旨の電報が届いた。

「最初に言っておきたい。家の娘はおそらく子供を産む事が出来ないが、それでも構わないか? 一生慈しんで仲良く暮らしてくれるのか?」
「私には幸いにももう二人子供が居ます。これ以上望んだら不幸になるでしょう」
「傷物だが……そうした事を分っているか? それを理由に離婚と言う事は?」
「私も再婚になります。そうした傷はお互いの障壁には為らず、家族を形成するための礎となるでしょう。私は本気です。英妃さんさえ承諾して頂ければ」
「準備など何も要らない。ただ慈しんでくれればそれでいい。お互い近所に住む仲間同士、仲良くしてやってくれ。血のつながりが何と言うのだ。結婚と同時に孫が二人出来るなんて、普通には無い至高の幸せじゃないか」

 噂が半分嘘であった事を知り、この時は本当にホッとしたのを良く覚えている。その後結婚式は行わなかったけれど、写真館に行ってウエディングドレス姿の写真だけは記念に撮り、嫁さんは俺の家へとやって来た。北朝鮮では嫁入りの際蒲団や家具一式を持って嫁入りして来るのが普通である。

 無論そんな物は直ぐに手に入る物では無く、女の子がその家に生まれた瞬間から、結婚するその時の為に親が少しずつ買い用意するのである。嫁さんはそれこそ家中の家具を全て入れ替えられる程の家具を持って俺の元へとやって来た。中国に娘を売るなんてとんでもない。嫁さんの両親は心から嫁さんの事を愛し慈しんでいたのである。

 結婚後の生活は順調に進んだのは勿論の事で、滅多に喧嘩する事さえも無かった。だからこそ逆に俺は愛されているのか時折不安になる事さえもあった。嫁さんが今日程までに感情をぶつけてきた事があっただろうか? いやこれまで無かったような気がする。

「あなたの子供を産めるなんて……」

 回りの目を気にせず抱き合い喜ぶ俺と嫁さんの隣で、狭い家の中騒ぎすぎてしまったのか気がつくと側に集まって来ていた二人の子供はあからさまに不愉快そうな顔をしていた。この感動の場面に何か気に障る事があったのだろうか? 

「とおちゃん。赤ちゃん生まれても僕らちゃんと可愛がってよね」
「当たり前じゃないか! というか最近冷たいのはお前達の方だろう!」
「そんな事無いよ。でも一応確認しとかないと。さあ」
「ねえ。そりゃ父ちゃんは俺らにとって大切な存在だし」
「どっちかと言うと居て当たり前だから、どうでもいっかなって思うことがあるだけ。無論父ちゃんが一番大事に決まっているじゃないか!」

 血が繋がらない兄弟が出来る事を、子供ながらに危機感を感じたのだろうか? 自分に常に向けられていた愛情が減るとでも思ったのだろうか? 子供と言うのは余計なところに気が回る。だったらもっと俺を大切にしろ! 最初からそうしてろ! と思うが、やはり子供。そこまで頭は回らないらしい。

 その日は初めてに二人の子供と嫁さん、俺の四人で一塊になって寝た。

「きつい」「あっちいけ」「かあちゃんの腹を蹴るな!」とにかく皆興奮したのか蒲団に入ってから何時間も眠る事が出来なかった。嫁さんの妊娠と言う事実が、バラバラで協調性の無い家族をようやく一つに纏めたのかもしれない。

 夜は吹雪が舞い始め、気温はもう氷点下を十度以上下回っていた。その日の夜見た夢では明るい太陽と月が星のネックレスを仲良く首にかけ踊り騒いでいる夢を見た。これは何かの暗示を指し示して居るのだろうか? 気になった俺は起きたとたん夢の内容をノートの隅に書き込んで置いた。

「妊娠している時、Hは控えた方が良いのか? どうなんだろう?」

 目じりがきゅっと落ちたニッコリ顔の太陽と月、そして星。この星が生まれてくる赤ん坊の最初の危機を指し示している事に気がついたのは、その後暫らく経ってからの事だった。