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彫きぬ雑記帳

山口県山口市の刺青処、日本伝統肌絵芸術の彫きぬこと衣笠新太郎のブログ
仕事の話し、趣味の話し、また旅の仕事の出来事などを書きます

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七、八年前に仕上げた鳳凰です


金太郎は細っそりと見えると言っても
痩せてはいない

なぜか金の字も俺も、夏にはよく食べる
夏痩せどころか、二人とも夏太りをしてしまう

平成十六年の夏、上京して三日後だったか、
八月も二十日を過ぎた土曜日の夕飯のときに

『靖国神社も十五日の騒ぎも静まったから
明日、お参りに行ってみようか?』というと

『うん、行きたい! 一緒に行こうよ〜先生♬』

『◯◯◯の高校のとき以来やなぁ^^』 

『うん ♬^^』

金太郎と初めて靖国神社に参拝したのは平成十三年秋の礼大祭
彼女が高校二年生のときである

《金の字の曾祖父さんは昭和十七年十月、南太平洋に於いて戦死をされたと聞いていた》
この時に遺された十三才の少年が、金太郎のお祖父さん


そして次の日、早起きしてお参りに行くことにした

十五日の喧騒も去って、平静に戻った境内…
しかし、午前中といっても残暑は厳しい
この頃はまだ参道の両脇に露店も出ていた時代

やがて、本殿の階(きざはし)の前で
二十歳の金太郎と、二拝二拍したあと
彼女はその手を合わせたままの時間が随分と長かった

そして深々と一礼をする
横で見ていて、さもありなんと思った

その後、遊就館に入った

以前、軽食喫茶店があった入り口付近には
平成十四年から零戦52型が燦然と鎮座している
この機体については数年前にブログに書いたことがある





『凄いねぇ〜先生』 『うん』

『本物よね〜』  『うん、ツギハギだけどな』

『え、そうなの?』

『今は完品の機体は世界中、一機もないんだ
空を飛べる機体も、完全なオリジナルじゃないのさ』

『。。。。。』

『勝っていりゃ…たくさん残ってたろうがな 』

そして遊就館内を見学して
帰りの途中、昼を食べてから下町の我が家に帰った


金の字は帰宅すると、洗濯物を取り込んで
シャツ類にアイロンをかけて、ひと息入れたあと
好きなレース編みをし始めた

幼な顔を残す童顔の金の字は妙に静かな面もち
彼女にすれば、
写真でしか知らぬ曾祖父さんの御霊に触れ
久々に数十秒の会話ができたのだ

そんな彼女をみて、
『◯◯◯、晩メシは外で美味いものでも食べにいこうか』

『えっ、嬉しい〜 ★◎。◎-★ ♬』

『ほら、◯◯◯のその笑顔が曾祖父ちゃんへの供養だよ』

『うん…今日ね、曾祖父ちゃんにお礼もしたの… 』

『えっ… ( ´。`*)?』

『初めて先生とお参りした高校の時ね
横にいる先生とずうっと仲良くできますようにって、
曾祖父ちゃんにね… 』

『。。。。。。。。。』

『。。。うふ、♡ 』

『む、。。。💧。。。六時前には出かけるぞ
食べたいものを決めとけよ^^』

『うん、うん ♬ ^^ 』

二人にとっては、夏は食欲旺盛な季節である


🐱お別れしてから11年目の平成の終わりに再会したとき
金さまが、殿様を靖国神社へと誘った訳が。。。

🐶これで分かりました
龍王太郎のウロコが終わりました





次回は着物に移ります

🐶残暑お見舞い申し上げます
🐱毎日暑いですがご自愛くださいませ



今、阿波徳島では阿波おどりの真っ最中

むかし、若い頃に休暇をとって同級生二人と海を渡って観に行ったことがある

どういう訳か、会場の一番良い席で観れたが、、
どうしてだかは記憶にない

次から次へといろんな連がでてくる
海自の小松島航空基地からも《かもめ連》が登場する
もちろん声をあげて応援した

さて、会場の踊りも終わって宿へ帰る道すがら、
街中であそこでもこちらでも皆がまだ踊っている
これは楽しい😀
同級生たちと三人で踊りの輪に加わった






宿に着いたら汗びっしょりだ
風呂を後まわしにして腹が空ききっているので、まず食事をして部屋に帰り窓を開けたら、街中ではまだ踊りのお囃子がする

このお囃子は一度耳にしたら暫くは忘れられない
大浴場の窓からも聞こえてくる
他の入浴者もいなかったので俺たち三人、スッポンポンで踊っていたものだ

しかし、この踊りは足腰が鍛えられるが
会場では一人目を引く高齢者がいて、万雷の拍手を受けていた

時代は変わって、今はこの人が名人なのだろう





ところで翌朝、雨となり風も出てきた
フェリー乗り場に行くと欠航となっていた (ノД`)

これで二日間、足止めを食らったのだ
やっと出港したが、船内のあちこちで船酔い者がでて、ほとんどの人は横になっていた
まぁ、皆さん慣れてないのだろう

しかし、休暇はあと一日だけ
大阪の実家に帰れば、もう次の日は呉へ帰隊なのだ
もしも、フェリーがまだ一日欠航が続いたらと思うと、ゾッとしたものだ

🐶時間厳守の海自は時間を切ったら進級は暫く
おあずけになってしまいます

🐱除隊三月前には無事に上等兵になれました

いよいよの時は、泳いで帰るつもりやった😅







六十の坂を越えてからは、
毎年秋口になれば年を取ったかと
自分に問い掛けるようになった
しかし毎年毎年の秋になっても、その実感が
湧いてこなかった

年月は緩やかに、或いは素早く流れる
今は七十の坂を三つ超えた

秋口に問い掛けるものが、今は夏の盛りに感じる様になってきた
ま、この暑い夏に山道を歩けるだけでも良しと思わねば
なぜなら今日は《山の日》である

しかし今日は仕事があるのでゆるりと出来ないので
山裾を行き来しただけ(゚∀゚)

なぜ八月十一日を山の日にしたのだろう?
それは日本政府がスイスを通じて、アメリカに原爆投下の抗議をしたのが八月十日で、
そしてそれが新聞記事に掲載されたのが八月十一日である

それを紛ら馳せるため、この日を山の日にしたと俺は思っている
日米合同委員会で決まったのだろうよ

🐶そんなことより真夏の山歩きはお水お持ちなすってくださいよ〜

🐱人があまり通らぬ場所で倒れなさったら大変💧

心配するな
水筒は肩から下げてるよ
しかし俺は汗をかくのがなぜ、こんなに好きなのだろうか?

🐶7月の大暑の時季に生まれなすったから
でも今年は30年ぶりに少し夏痩せを。。。

🐱今年の殿様の日焼けは真っ黒⚫️クロスケ
どこに目があるやら鼻があるやら。。。

これでは金の字にあわせる顔がない (`・ω・´) むむっ



🐶とっつあんは昨日はずっと無口で。。

🐱腹の中は煮えくりかえって
『くっそーー!!アメ公め!(# ゚Д゚)💢』と、
思い出しては、叫んでなさいました
もちろんお客さんの居ないとき 。。。

🐶お客さんが居たらビックリ‼️します 笑

ということでありまして
この八月は一年の中でも、あまり好きな月ではありませんので、記事の数も少なくなります

🐱🐶読み人少なしですし。。。笑
胸割りの人、背中の方も進めます
少し写真に写り込んでいるのはこの人が大むかし
他所で彫った龍で、その他を全て任されました






話しは変わって
古来から、黒髪は女の命とか。。

しかし、
街を歩いていても黒髪の女性が少ない気がする
中高生の生徒以外は、ほとんど何かしらの色を染めている人が多いような

まぁ、どうでもいいことだが
それでも綺麗な黒髪の人を見ると 👀ん💬
何となく新鮮な思いがするものだ
顔はさておきであるが (゚∀゚)

🐶うふ、ふふふの方はずっと黒髪でござんす
🐱あの方はそれが、とても良くお似合いです

足柄山の金太郎が茶髪では絵にならんからな

🐶とっつあんも黒髪
🐱白髪染めは64、5までチョイチョイと 笑

染め始めたのは40頃で
すでに33才時には部分的に出始めたんや
ほらね 横っちょに





この頃は4年居た部屋住みもやめて6年目
旅仕事も多くなり、少しは売れ始めたころ。。

🐶とっつあん、今と違い硬そうな髪 やね

歳を取るということは、心も髪も
優しくなるのじゃよ (=´∀`)

えっ?🐶心も優しくって、、???

🐱あ、、この時、金さま生まれてたかしら?

ん、生まれて8ヶ月くらいやろな
遭遇するのは14年後先になるけどね ^^

おまけの動画です
僕と同い歳のお2人の動画をどうぞ🙇🏻


今の世、やくざだって部屋住修行などは
稀で少ない
まして彫りもの師の元での部屋住など皆無

今は弟子といっても通いであろうし
しかも授業料まで取られる始末なのだ

俺たちの時代は三食付きの本格的な住み込みで
給金なんかは無い
師匠の身の周りの世話や外出時のボディガード
雑用などは山ほどある

そんなむかし話しなどを、ひとつ。。
俺が海自を除隊して三月後には背中を彫り始めた
それから、ふた月半で額彫りが仕上がった

そういう暇な頃なので、子供の頃から続けていた
道場通いもまたはじめていた
おまけに、ヤクザ顔負けのシノギもして
舎弟も三人を連れていた

そして俺が23の頃
自分の行く道が分からず、、迷っていた時に
以前から誘われていた師匠の元で修行をしようと
部屋住み生活を始めた。。。

兄弟子の二代目とは歳も同じく、
出は福岡の筑豊で、常に仲が良かった
まるで本当の兄弟のように

この二代目が正式に独立する前か、その後か忘れてしまったが
うちの師匠が発端人となり、刺青の倶楽部を興した
その副会長になったのが博多の彫◯士という男

コイツは素面の時は人が良いが
一杯でも飲めば人が変わる

俺には絡んでこないが、二代目にはよく絡んだ
まぁ、その度に間に入ったもので、俺としては
嫌いなヤツだった

そうこうしている内に、皆で揃って飲んでる時
またもや二代目に絡みだした
この時は師匠も同席していたので、俺は間に入らず、
黙って副会長を睨み続けていたが
二代目は黙って席を外した

数分…待ったが、もしや!と思い
師匠にことわりを言って外に出た
すぐに車を拾い、二代目の知人のアパートに駆けつけたとき

既に二代目は小指を詰めてる最中
見れば薄刃の包丁なので骨で止まっていたが
どうにもならない

俺は包丁の背中を叩く物を探したが
『落ちたわ…』という

血止めは最初からしていたが血は溢れる
用意の包帯をきつく巻いてやり、師匠の所に一緒に行き
二代目に代わって、彼の悔しさをのべた。。。






それから俺は、
この副会長が博多から大阪に来るのを待っていた…
◯めるつもりだったのだ マジで


この頃、、、大阪の刺青師一門の中でも
うちは、刺青師なのか極道なのかわからない、
そういう所で、、、

他と揉め事が有れば、随分と走らされたものだ
とくに。。。オレ^^

🐶とっつあんの青春時代は、今の同業者とは随分と違う時代で
血刀も提げて。。。

🐱うちの殿様は其処いらの、にわかヤクザより
肝も据わってなさるよ
だから今でもご交誼の貸元衆も多いのよ

東京では日曜日に休みを取ることが出来たが、
別段何もすることもなく、年に二、三度靖国神社に行き
ほとんどが銀座に刀を観に行くことぐらいで

日が暮れれば八丁目辺りのバーのカウンターに腰掛けている

つまりは休日の取り方が何年経っても、東京では慣れなかったのだった
そりゃそうだ、山も無ければ川も無い大都会


そんな折のある日、若い娘の声で連絡が来た
最初はどうも誰だかわからなかったが

『以前、渋谷から家まで送ってもらった◯◯です…』

あ、それで相手がわかった
数日後の日曜日に顔を合わせたのだが、
一年半で随分と娘らしくなっていた。。

と、ここから先は以前に記事にして書いたが
俺の休日の取り方が変わっていくのであった

休日を退屈しない時間を過ごせることができた
とにかく朗らかで、学校であったことなど、よく話してくれる

俺の誕生日には必ず何かを贈ってくれ、おれも
この娘の誕生日には、彼女の歳に見合ったものを贈っていた

そのうちに、
この娘と会うのを心待ちするようになってきた
それは何かわからないが
多分、自分にこんな娘がいたらと。。。
それだけのこと

数年後の、彼女とのことは
この当時、まったく思ってもみないことだった

🐶とっつあん、急に今ごろ同じ話しを。。。?

🐱それはね、お昼に自転車道を走っているとき
あの頃の金さまとそっくりな、部活帰りのような女の子とすれ違ったのよ
殿様、ボ〜っと眺めていたわ うふふふ😸 笑

しかし、この夏は暑いわ🥵☀️


山吉兵《やまきちべい》や山吉と呼ばれている鍔工が尾張清洲に居た
本名、山坂吉兵衛重則という甲冑師あがり

この山吉兵の初代とニ代は織田信長に保護され、
また、仕えてもいた
信長は、強く丈夫かを試し斬りをして確認し、
山吉兵の鍔を信頼したのである

鍔というものは手の保護だけをする物ではないが
やはり丈夫でなくてはならない

この山吉鍔は江戸中期頃まで代々続き、
代が下がるほど、透かしも緻密になり
雅味に掛けるものとなってゆくのである


古道具屋の片隅にあったこの鍔…
埃を被っていたが槌目地の肌の錆色は黒く艶があり、
後代の山吉兵よりも雅味もある









透かしは蜻蛉に菊の花弁か、或いは水車。。。

下が在銘の山吉兵の代表的な鍔である
代価は諭吉さん百人以上が要る






おれの手元にある鍔は無銘なので、
これが山吉兵とは、はっきりとは言い切れないが
他の同工の作と比較しても特徴の一致がある
おそらく二代目山吉兵だと思われる

ちなみに買った値段は諭吉さん1人で足りた(゚∀゚)

大きさは縦二寸二分ほどで、小脇差に丁度良く
秘蔵の無銘村正一尺九分の拵に、この鍔を掛けようと思っている









たいそうな拵えではなく、
農家から徴用された足軽風にするつもり
足軽は腰刀は自前であり、具足、槍、鉄砲そして本差しは貸し出さしされる
農家といえどもこれくらいの小脇差は何処の家にもある
武将の末が帰農することも、ままある

🐶とっつあん、二等兵の足軽に。。💧

🐱うふふ、ふふふふ 腰刀、村正ひとふり、
十八で二等兵、三年ほどで足軽小頭。。
出世はこれからよ

🐶今は老いて七十三の夏でござんす 笑
左腕の蛇に色が入りました _φ(◎ω◎-: ) チクチク









🐶本日は残業ありますので、無駄話はありません
🐱新記録の三行記事です 🙇🏻