千紫万紅

中国の文学、映画、ドラマなどの感想・考察を自由気ままにつづっているブログです。古代から現代まで、どの時代も大好きです。


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元曲。唐の玄宗と楊貴妃の恋愛を背景に、安禄山の乱による王朝崩壊を描く。タイトルの梧桐雨はご存じ白居易の「長恨歌」の一節からとったもの。

 

時の皇帝・玄宗は政務もかえりみず新たに取り立てた妃・楊貴妃との情事にふけっていた。そんな中、唐に帰属していた安禄山が宮中での権力争いに敗れた恨みから反乱を起こす。弱体化していた唐軍はこれを防ぐことが出来ず、玄宗は都から逃げ出す。しかし、楊貴妃は一族と共に政治を乱したとして、殺されてしまう。その後、反乱は鎮圧され玄宗も都へ帰還する。ある時、楊貴妃と再会したが、それは夢だった。亡き彼女に想いを寄せて、玄宗はこの世に残された悲しみを嘆く。

 

玄宗と楊貴妃の物語で最も有名なのは清の「長生殿」だが、本作はその下敷きとも呼べる作品。かなり史実を重んじた作風が特徴で、宋の「楊太真外伝]のようにヘンテコな異聞も無ければ、「長生殿」終盤のようなファンタジック要素も無い。かなり堅実な作りである。まあこの安禄山の反乱の話自体が、そんなに脚色を加えなくてもドラマチックであることも大きいんだろうけど。

楊貴妃の舞や梨園の宴など、歌や楽曲が効果的に使われている場面も多く、戯曲の強みも十分に引き出せている。

元曲の中でも名作の一つなので、是非読んで欲しい。

 

 

 

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元曲。作者は秦簡夫。道楽息子が没落してから再び人生をやり直すまでを描いたお話。

金持ちのボンボンである揚州奴はいい年して働かず、親の財産を食いつぶす生活を送っている。父親は何度も息子を諫めるが、相手は全く耳を貸さない。このままではまずいと、父親は隣人の商人・李実に息子の義父になってくれるよう依頼。李実はこれを引き受け、父親以上の厳しさで揚州奴を指導する。それからしばらくして、揚州奴の父親は亡くなってしまう。揚州奴もしばらくは遺産で食っていけたものの、とうとう金が尽きて無一文に。そこでようやく心を入れ替え、八百屋として働き始める。その姿を見た李実は、揚州奴の父親から密かに与えられていた財産を、揚州奴へ返すことにしたのだった。既に真人間になっていた揚州奴は、家を盛り立てていくことを誓う。

 

有名な通俗古典小説は何らかの典故をもとに物語が作られているが、本作はそういったものもなく、無名の庶民が主人公。漢民族が被支配層となり、科挙も禁止された元代は、それまで文化を形成する立場にいた知識人層の没落を招いた。戯曲の制作は、そんな生き場を失った文人達が自らの才能を発揮できる、数少ない道だった。

とはいえ、そもそもこの時代のことなので、庶民と文人の知識レベルはかけ離れている。文人らしいウィットに富んだ作品は当然庶民受けもよくないし、下手すると内容すら理解出来ない。ゆえに、作り手である文人達は段々観客側の嗜好に合わせた作品を書いていくようになる。少々前置きが長くなったが、そういう事情もあって、元曲では本作のように庶民を主人公としたジャンルの話も多数作られた。庶民といっても、戯曲が上演されるのは大抵都市部だから、やはり商人にスポットが当たりやすい。また「きちんと働け」だの「親を大切に」だのやたら説教臭い文句が多いのもこのジャンルの特徴か。元曲の作者である文人達は腐ってもエリート階級、庶民を教育しようという意識が垣間見える。
揚州奴のダメっぷりは読んでいて苛立たしい。李実に諭される度、手層を見て反駁する場面が笑える。そんなことしてる場合か。とはいえ親譲りの商才はあったのか、落ちぶれてからは精力的に働く。なんだかんだ乞食暮らしに甘んじたりしないところは立派。金瓶梅だったらこういう金持ちのボンボンは絶対のたれ死んでる。
 
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清代の文人・李小池の記録文学。咸豊~同治年間における太平天国軍の虐殺行為を、間近で体験した作者が記したもの。

 

世界史でこの時期の中国を学ぶと、どうしても阿片戦争やアロー戦争といった西欧列強による侵略事件に目がいきがちだが、真に清朝を苦しめたのはこの太平天国の乱だろう。清代の宗教反乱でもとりわけ規模が大きく、完全な鎮圧まで十数年かかっている。列強に対しては進んだ文化や軍事力を見せつけられた精神的ダメージこそ大きかっただろうが、人的被害でいえば太平天国の方がずっと大きい。

 

で、本書はそんな太平天国の乱を一文人がミクロな視点でつづったもの。太平天国軍は総じて規律正しかったというのが通説だが、所詮賊は賊ということで、末端の兵士達はそれこそ略奪虐殺モーマンタイな連中ばかり。特に南京攻略以降は軍勢が膨れ上がっていたため部隊の統率も生き届かず、モラルの低下が著しかったと見える。そもそも賊の大半は飢えた民衆出身だから、生きるのに必死で残虐行為にも遠慮が無い。「揚州十日記」や「蜀碧」に勝るとも劣らない凄惨な描写のオンパレードには、読んでいて気が滅入ってくる。とにかく全編通して人が死ぬ。太平天国側が酷いのはもちろんのこと、彼らと戦っているはずの清朝正規軍も隙あらば民衆を虐待しまくる。敗走した兵士が暴徒化し、民衆を守るどころか略奪行為に走ったりする。中国の兵隊はヒジョーに待遇が悪いので、確かにこういう側面はあるけれど、やっぱり読んでいて胸糞が悪い。ちなみに、これが曽国藩による西洋化した軍隊の結成や、地元住民による防衛組織、通称団練の誕生に繋がるというわけ。本書が刊行された当時、清朝側の虐殺行為については当局の介入でかなり削除されたそうな。後になって完本が出たものの、本来の原稿ではもっと詳細な描写が残っていたかもしれない。

作中では太平天国特有の制度であるキリスト教思想や男女平等政策、天朝田畝などについては一切言及されない。何も考えず読んでいると、太平天国も伝統的な中国の秘密結社や民衆反乱軍と大した違いが無いように感じてしまう。まあ組織の末端なんてみんなそんなもんなのだろう。本作に書かれているのは太平天国の暗部であり、そこにあるのはただ生きるのに必死な人々の姿ばかりだ。

 

作者は相当裕福な家系の出身だったため、親戚筋も含めると一族はかなりの人数にのぼった。が、戦乱の中でそれぞれ離散してしまい、作者の近くにいたのは弟が一人きりだけ。最初は学の無い振りを装っていたが、賊軍の頭目が文人を重用していたため、その秘書となることで身の安全を確保することが出来た。が、今度は賊同士の権力闘争に巻き込まれ、何度も身の危険に陥っている。争いの日々を生き延びつつ、ついに機を得て賊軍を脱出する。太平天国軍に拘束されていたのは、およそ二年半ほどだった。その後寧波に行きつき、書記として働き、後にアメリカやヨーロッパをめぐる使節団に参加している。当時でも進歩的かつエリートな人物だったわけだ。が、中国のサイトなんかを見ていてもあんまり詳細なプロフィールが見当たらない。何故だろうか。

本作以外の著作にはイギリスの阿片政策を批判した「鴉片事略」、前述の海外渡航について書いた「環游地球新録」という、いかにも面白そうなタイトルがある。どちらも未翻訳だが、いずれ機会があったら中身を覗いてみたい。

 

最初にも述べたように、世界史で学んだのとは全く違う視点から太平天国の乱に触れることが出来る良書。これを読めばいろいろな発見があるはず。また揚州十日や蜀碧にも劣らないスプラッタな内容なので、そっち方面の歴史に興味がある方も是非。

 

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楊顕之の戯曲。正式なタイトルは「临江驿潇湘秋夜雨」。当時ではよくある妻子の悲歓離合を描いたもの。

南宋時代・清廉な官僚張天覚の一人娘・翠鸞は水難に襲われたところを崔文遠に救われ、彼の甥である若き書生・崔甸士と結婚。崔甸士はやがて上京し科挙を受ける。試験官である趙銭は、娘と結婚すれば県知事の地位を与えると提案。崔甸士はこれを承諾し、翠鸞を裏切ってしまう。一方、郷里で夫の帰りを待っていた翠鸞は、彼のことを心配して単身上京。そして夫が別の女と結婚していることを知る。すぐさま訴え出たが、崔甸士は逆に翠鸞を糾弾。罪人として殺そうとする。護送されていく翠鸞は、途中で父の張天覚と再会、危ういところを救われた。再び崔甸士のもとへ赴いた翠鸞は、彼に罪を謝罪させ、再び夫婦となる。

 

元曲ではしばしば良家のお嬢様がヒロインとなる。才子佳人ジャンルのヒロインの場合、恋愛においてしばしば儒教の教えを逸脱した行動をとるが、本作のような夫婦離散もののストーリーだと、ヒロインは儒教観念に忠実な貞女らしい行動をする。それが最も表れているのが本作のラストで、翠鸞は夫から散々酷い仕打ちを受けたにも拘わらず、再び彼と夫婦になることを選ぶ。本編でも彼女が口にしているように、貞女は二夫に仕えないものだからだ。正直いって、現代だったら到底受け入れがたい結末だろう。

無論、作品によっては、妻を裏切った夫が何らかの天罰を受けるパターンも当時から存在した。また本作では崔甸士がめとった二番目の妻・趙氏の娘は「アバズレ」の入れ墨をつけられたうえ下女の身分に落とされるというあんまりな仕打ちをされるが、これも作品によっては妻を二人娶ってメデタシメデタシなパターンがある。

いずれにせよ、封建社会下において女性は圧倒的に地位が低く、一人で生きていくことも非常に難しかった。本作の翠鸞が最終的に復縁の道を選んだもの、それ以外にベストな選択が無かったからだといえる。一応ハッピーエンドの体裁をとってはいるが、生き方を選べない女性の悲劇が描かれている。

そう考えると「西廂記」をはじめ儒教観念の枠を超えて生きようとするヒロイン達の方が、最終的には女性としての幸せを掴んでいるような気もする。

 

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元曲でも有名な一遍。正式なタイトルは「趙氏孤児大報讐」。中国古典十大悲劇の一つにも数えられている。


春秋時代・晋の名臣である趙盾は、政敵の屠岸賈によって一族郎党を殺されるが、ただ一人生まれたばかりの子供が生き残った。子供は趙家の忠臣達の手で密かに育てられ、やがて二十歳になった時自らの出生の秘密を知り、反乱を起こして屠岸賈を打ち倒す。

 

史実を題材としているが、大衆向けの元曲らしく改変部分も多い。現代でこんな作り方したら史実厨に緒方面から突っ込まれそう。とりあえずこの方がドラマチックだろうというノリでかなり史実をいじっている。それだけに冒頭から中盤にかけて描かれる趙家の悲劇は見事。拷問や自殺のシーンなど暗い場面が続き、屠岸賈の悪役ぶりも際立っている。

主人公である趙氏孤児こと程勃のストーリーはいかにもな貴種流離譚だが、正直彼の試練は生まれた直後がピークで、その後は別段危機にも見舞われず二十歳まで育っている。成長したら親と顔だちも似てくるだろうし、周囲から疑われそうなもんだけど。ま、大衆劇だからね。細かいことは言いっこなし。成人した程勃は文武両道、屠岸賈への仇討ちも手際よく果たしてしまうヒーローキャラとして描かれている。
筋立ては単純な復讐劇だけれども、前半のフラストレーションを吹き飛ばす後半のストーリー展開が素晴らしい。
 
何とも嬉しいことに、最近になって東方書店から邦訳が刊行された(記事の先頭で貼っている「中国古典名劇選」に収録)。割と映画やドラマ化にも恵まれている作品なので、機会があれば是非原作にも触れてほしい。
 

 

 

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先日、揚州十日記を紹介したので、セットでこれも。

明末の文人、朱子素の記録文学。南下してきた清軍が江蘇省の嘉定県で行った虐殺について記録したもの。

明の朝廷を滅ぼして以降、清軍はさしたる抵抗も受けず順調に侵略を進めていたが、数少ない例外がこの嘉定県だった。地元の民衆は漢民族文化への愛着が深く、辮髪令をはじめとする清側の政策に反発し、また清へ降った明の文人・武将を殺害する行動も起こした。そのため、清は揚州に続いて嘉定の民衆を徹底的に虐殺した。これが通称、嘉定三屠と呼ばれる事件である。

 

作者は史書よりの記述を心がけており、時系列が丁寧に整理されている他、記述の視点も客観的。清朝に対する官僚や軍人の動向など、緒方面の状況がとてもわかりやすい。そのぶん、人民の虐殺描写は臨場感に欠けるきらいがあり、揚州十日記を先に読んでしまうと若干インパクト不足かも。

 

印象深いのは虐殺の先鋒に立っているのが敵に降った明の武将・李成棟だったり、清の辮髪令に従って髪を切った人々が不忠者であるとして殺されたり、漢民族同士で争っている場面がやたら目についたこと。なんか清末とか日中戦争期もおんなじことやってるよなぁ。中国は同じ民族云々をよく主張する割に、相手が漢奸であれば同族であっても全く容赦しない。

清軍の虐殺ぶりも凄まじく、嘉定が清兵を撃退する度、さらに過激な攻撃を浴びせてくる。最終的、に嘉定の人民は殺しつくされ、抵抗力を完全に奪われて無力化した。文章自体の描写は淡々としているが、この惨禍は揚州に勝るとも劣らない。

 

本書も揚州十日記と同じく、清末の満州族排斥の材料として革命家達に読まれていた模様。皮肉なことに、当時の満州族は本作で書かれている明側の官僚層と変わらない堕落ぶりだった。形はまったく同じで無いにせよ、歴史は繰り返すということか。

 

 

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明末の文人・王秀楚の記した記録文学。中国侵略のため南下してきた清軍が、揚州で行った十日間の虐殺について描いたもの。

 

腐敗し切っていた明朝は、北京の朝廷が倒れると南京へ亡命政権を建てた。が、これまた上から下までどうしようもない連中揃いで、侵攻してくる清軍にもろくな抵抗をしなかった。そんな中、果敢に戦っていた明の将軍・史可法は揚州で敵を食い止めるべく奮戦。この攻略に手こずった清軍は怒り心頭、揚州へ入城するなり大虐殺を行った。これがいわゆる「揚州大虐殺」と呼ばれる事件で、本作はそれを直接体験した作者によって、その詳細が記されている。

 

本作が後世でも名著として語り継がれている理由は、主に二つある。一つは、作者の語り口や視点が非常に主観的なこと。通常、中国の文人が歴史書や記録を手掛ける際は、客観的な視点が重んじ、文章の形式やルールをきっちり守って執筆する。これは司馬遷をはじめ古代の歴史家から受け継がれている文人の基本的なスタンスだ。

が、この揚州十日記はそうしたスタンスとまったく逆の立場をとっており、作者は大虐殺の中で感じた恐怖や怒りをありのまま表現している。

違いを例えていうなら、前者は「教科書」で、後者は「体験談」といった感じ。教科書は起こったことを淡々と書き並べているだけだから、そこには広い視点から見た事実があるけれど、物語のような起伏はない。一方、体験談は自分自身の周囲に起こったことしか表現できないけれど、そこには感情を乗せた描写が出来る。ようは戦争の歴史を学ぶ際、教科書を読んでも別に泣く奴は殆どいないだろうが、実際戦争を体験した方の話を聞いたら心揺さぶられるのと一緒。

作者は、清の兵士から金品を脅し取られたり、隠れ場所を探していたら先に来ていた者達に追い出されたり、家族や親戚が次々に殺される体験を、ただただ目で見たままに描写する。内容も整理されていないし、文章も際立ってうまいわけではない。けれど、圧倒的なリアリティと感情の爆発がある。心へ訴えかけてくるものが全然違うのだ。これは作者が無名の文人で、そもそも本作を世に広く残そうとか、歴史書として書こうという考えを持たなかったために起こった現象だと言われる(似たような例として「浮生六記」とか「思痛記」なんかもそうだろう)。

ちょうど同時代には「嘉定屠城紀略」という、清軍の虐殺を記録した文学があるのだけれど、これは伝統的な文人のスタンスで書かれている。なので、似たような虐殺を描いているはずなのに、内容が淡々としている印象を受ける。揚州十日記と比較して読むと、その違いが非常にわかりやすい。

 

ちなみに揚州では清軍によって八十万もの市民が殺されたことになっている。いくら何でも数が誇張されすぎだろ…と思いきや、ちょうど同じ頃にはこんなヤツなんかも存在していたわけで。いやはや恐ろしい時代だなぁ。

清兵の残虐ぶりは凄まじく、城内を洗うと称して略奪三昧殺戮三昧。川に積まれた死体で水が赤く染まっていたとか、胎児が馬の蹄でつぶされたりとか、女子が浚われ尽くして一人も残らなかったとか…。作者の妻は何度も強姦未遂に遭い、髪の毛を掴まれて地面を引きずり回されるような暴力も受けている。侵略の前にあまりに無力な人民の姿は、読んでいてきつい。

 

作者は本書の最後に、太平の時代を生きる人々はこのような痛ましい出来事があったことを忘れず、戒めとして欲しい、書き残している。が、所詮は無名文人の作品であり、おまけに清朝は言論統制も厳しかったので、本書は歴史の中に埋もれてしまった。

…と思われたのだが、数百年も後になって意外な形で脚光を浴びることになった。それは他でもない清朝末期。朝廷はすっかり腐敗して弱体化、西洋列強がのさばって国内はどんどん侵略されている。

満州打倒を掲げる不満プリプリの漢人達は、どこかに彼らを攻撃する口実が無いかと探していた。そんな時、日本へ留学していた中国人が見つけたのが、コレというわけ。満州民族の残虐ぶりがこれでもかと書かれているではないか! かくして、本国に細々と残っていた写本をかき集めたり、日本にあるものを逆輸入したりすることで、反清を掲げるグループに本書は広まっていった。残念なことに、とうの作者が意図する形とは違う方向で、後代の人々に利用されたわけである。まあ、こういう数奇な運命を辿ったというのが、本作の語り継がれるもう一つの理由。

 

中国古典の中でも特異な地位をしめる作品だと思うので、もし機会があれば是非読んで欲しい。東洋文庫で刊行されたバージョンは「蜀碧」と「嘉定屠城紀略」もセットで収録されており、これ一冊でスプラッタな中国史を存分に堪能できる(何じゃそりゃ)。

 

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中国古代の思想家・孔子とその弟子達の言行録。

もはや説明不要な中国古典の名著。実は経書の類をきちんと読んだことが無かったので、今回通しで読んでみた。

 

色々と語るべきところはあるけれども、まず孔子について言うなら、彼はやはり永遠の求道者なのだと感じた。本書では孔子が自分の口から度々「聖人」や「君子」について語るけれども、孔子自身はその聖人や君子の域に達しているわけではない。かえって弟子たちから諭され学ぶ一面もある。孔子は生涯、自分自身に満足せず、学ぶことをやめなかった。現代の我々はどうしても孔子のありがたい言葉にばかり意識を引っ張られがちだが、真に孔子から学ぶべきは、彼の求道の姿勢だと思う。

 

続いて論語そのものの内容について。ここにも孔子のスタンスが反映されていて「学ぶこととはどういうことか」が状況やパターンを変えて繰り返し語られている。ただ、それ以外にも政治論や歴史問答など異なったジャンルの話も詰め込まれているので、全体的なまとまりに欠けている(もとが言行録だから当然といえば当然だろうけど)。だから、この本を一篇読むくらいだと「つまり何が言いたいの?」となることが多いのでは。本作は歴史の流れで「経書」という扱いを受けるようになったが、そもそも「人を教え導く目的で書かれたもの」ではない。なので、後世の人々にとっては「いかに本書を読むか。どのように内容正しく理解するか」ということが大きな課題となっている。大量の注釈書が作られ、儒家同士で論争が繰り広げられ続けたのがそのいい例…まあ古典や経書なんてどこの国もそういうもんだけど。

このことは現代でも変わらない。本作は軽く読もうと思えばいくらでも軽いノリで読めるし、深く読もうと思ったらそれこそ読んでも読んでも理解が追いつかない。
 
軽く触れる、ということなら書店でよく置かれてる「○○で役に立つ中国古典」「中国古典から学ぶ○○」類の本が挙げられる。論語の一部からありがたい言葉だけを切り取っただけの代物で、その言葉にしても作者が現代人にわかりやすい解釈をして、原意をないがしろにしていることすらある。ようは「謙虚な姿勢が大事だヨ」ということをわざわざ孔子の言葉で言い変えてるだけだったり、古典の権威を借りただけの本なので、そんなもん読むくらいなら論語現代語訳を適当にペラペラめくった方がいい。上でも述べたように論語はあまりまとまりがないので、軽く触れるだけなら、五百篇の文章のうち自分の興味のある部分だけ読むという手がある。何だかんだ古代の書物なので、内容のすべてが現代を生きる我々の参考になるわけでもないし。
 
深く触れるとなるとこれは大変な労力が要る。経書や経典に総じて言えることだけれども、古人の文章というのはそもそも使われている言語が古く、読解のヒントが少ない。またそれらの理由から文章も様々な解釈が可能なので、内容を正確に把握するのが困難。過去の注釈書を参考にしたとしても、それを書いた文学者は生きていた時代も違えば経書に対するスタンスも違う。その時代ごとの歴史背景を理解しておかないと解釈が歪んでしまうだろう。現代では多数の論文も書かれているので、研究するなら有名どころは読んでおけ、ということにもなる。また歴史についてもっと踏み込むなら、本書が生まれた周辺の時代についても深く学ぶ必要があり…と正直きりがない。まあこういうのは論語に限らないことだけどね。
 
何が言いたいかっていうと、中国古典の名著だからってそこまで有り難がったり敬遠する必要は無いし、本書の読み方も人それぞれだってこと。浅く読むも深く読むも良し。自分の糧になればいいのだから。
上では経書としての読み方を書いたけれど、孔子とその弟子達の問答は一種の小説みたいな面白さがあるし、中でも子路のキャラクターはかなり可愛い。翻訳も沢山のバージョンが出まわっているので、それぞれ読み比べてみるのも一興。
とにかく色んな楽しみ方が出来る一冊なので、まだ読んでいないという方は是非どうぞ。
 
 
 
 
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明末清初の歴史家・張岱の随想録。タイトルの陶庵は彼の号である。

著者の張岱は裕福で学もある名家に生まれ、若い頃は世の遊びという遊びを経験し、好き放題に暮らしていたが、時代は明の末期であり、清軍の侵攻によって王朝は滅亡する。しかし張岱は清の支配に屈することなく、生涯を明の遺臣として生きた。本作は、張岱が若い頃の思い出を気ままに書き綴ったもの。
 
明末は政治的に腐敗しきって国家のシステムは崩壊寸前だったが、一方で文化的なレベルは歴代王朝でも最高峰に達していた。清王朝が明を滅ぼしてしまったことで、一時的にではあるがこの文化的な繁栄は失われてしまった。本作を読むことで、張岱が若い頃に存在していた明の繁栄をうかがい知ることが出来る。書かれているジャンルは人物、食事、自然、茶や遊戯、彼の住んでいた江南一帯の風習など多岐に渡っており、色々な角度から楽しめる。
ちなみに、この手の本だと自分達の王朝をめちゃくちゃにした満州族への恨み節が出てきてもおかしくなさそうだが、意外にもそのような記述は少しも無い。彼にとっては、過去に経験した出来事は既に恨みや悲しみを越えた一種の夢になっていたのかもしれない。
名家の子息だけあって、張岱は当時の有名人にも詳しい。講釈師として名を馳せた柳敬亭や、画家の陳洪綬、南京旧院の妓女達など。そうした人物に関するエピソードもなかなか楽しい。とりわけ珠市の妓女・王月のクールビューティっぷりや、お茶に造詣が深い閔老人、女と酒が大好きな画家・陳章侯は印象深かった。
 
中国古典の随筆の中でも傑作の一つなので、是非ご一読を。
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中国唐代の伝記小説。太平広記の第四八八巻に収録されている。かの有名な古典戯曲「西廂記」の元ネタ。会真記のタイトルはもっぱら明代以降に用いられるようになったもので、それ以前は鶯鶯伝と呼ばれていた。

 

ストーリーのあらましは当然ながら西廂記と一緒。科挙受験を控えた張という若い書生が、旅先の寺で未亡人の令嬢・崔娘(鶯鶯)と恋に落ち、侍女・紅娘の助けにより彼女と思いを遂げる、というもの。

西廂記はこの後、張が試験に合格、無事に鶯鶯と結婚してハッピーエンドだが、本作では結末が異なっている。張と鶯鶯はそれぞれ別の相手と添い遂げ、一年余りして再会するも、顔を合わせることなく手紙のやり取りをして別れていく。何ともカタルシスの無いラストだが、唐代伝奇の大半はそういうもんなので仕方ない。そもそも読み物として大衆向けに書かれたものではないからね。

 

人物造形も西廂記とやや違う。張は何だかお高く留まった感じの青年で、西廂記の張君瑞ほどなよなよしていない。鶯鶯も家が金持ちというだけで、宰相の娘ではない(ツンデレぶりはこの頃からしっかり描写されているけど)。紅娘も殆どチョイ役。西廂記で有名な拷紅の場面も無し。とはいえ、彼女がカップルのために布団を持って張の部屋を訪れるくだりは、急展開過ぎてなかなか笑える。

唐代伝奇でも有名な一遍なので、興味のある方は一度読んでみるといいだろう。

 

 

 

 

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