秋の終わり頃から調子が少しずつ安定してきて、今は絶好調というにはまだほど遠いが、今までの状態に比べるとよくなってきた感じがする。
 
何がよかったかはわからないが、いろいろなことが作用しているのだと思う。
 
その中で、一つ印象に残っているのは、あるとき、ふと、自分の中にものすごい危機感があることに気がついたことだった。
 
そして、その危機感に追い立てられるようにして、不安や焦燥感なども生じていたのだった。
 
当然ながら、今、その状態を維持しているのは自分なので、危機感を抑圧するのをやめて、危機感の中に「浸る」というか、危機感を切り離すのをやめるというか、そのようにして、クリーニングしながらしばらく過ごしてみたら、やがて、危機感として感じられていたエネルギーは、危機感の形が解消されていくにつれて、自分のエネルギーとして統合されていったとでもいうような感じになった。
 
それから、少しずつではあるが、絶えず危機感に追い立てられているような感じは、減ってきている。
 
そうしてみると、外的な状況から危機感を募らせていたのではなく、絶えず危機感があったからいろいろな状況が危機的なものに感じられていたというのがわかってきて、状況は変わっていないが、以前ほど危機的な状況だという感じは薄れてきたような気がする。
 
だから、ようやく、本当の意味で療養することができるようになってきたというところであろう。
 
この危機感、あるいは慢性的なパニック感覚、に、若い頃はもっと追い立てられていたし、よくあんな状態で生きていたものだと、ぞっとする。
もう、自分がよくなることはあり得ず、一生、心身の不調と付き合いながら生きていくのだろうと覚悟していた面もあったので、この1ヶ月ちょっとの変化は、本当に思いがけないものだった。
 
問題解決について調べていましたが、問題解決に関する研究からは、重要なことが抜けているのではないかと思いました。
 
それは、現状に何も問題を感じていないという人はほとんどいず、むしろ、大なり小なり何らかの問題を感じながら生きているというのが普通ではないか、ということです。
 
どういうことかというと、問題解決に関して論じたものを読んでいると、あたかも、問題のない状態に対して突然問題が現れたかのような印象がありますが、ほとんどの場合、問題は何もないところから忽然と現れるのではなく、既にある問題にどう対処するか、ということになります。
 
ただし、問題というものの範囲を限定すると、問題は、何もなかったところに現れるように見えます。例えば、蛍光灯が切れたので取り替えなければならないという問題は、そのときまでは蛍光灯はちゃんと点灯していたのですが、寿命が来たために切れて交換の必要性が生じたわけです。こうした、比較的狭い範囲の中では、問題は現れては解決される、というプロセスがあるように見えます。
 
しかし例えば、自分の性格が嫌いで改善したい、あるいは、親との関係がうまくいかなくてどうしたらいいかわからない、といったような問題の場合には、問題がなかった頃というのを想定することが困難です。
 
もちろん、今挙げた例の場合には、ごく幼い頃には、自己嫌悪を持っていることはなかったかもしれませんし、子供の時には親との関係にも特に問題を感じていなかったかもしれません。
 
さらに言えば、今の会社の処遇が不満で転職したいという場合には、そもそもその会社に入社したこと自体が問題の発端だという捉え方が、一見成り立つかのように見えます。
 
しかしその場合にも、では、その会社に就職することを選んだ要因は何だったのか、というように、問題の発端をさかのぼっていくと、結局は、いつ問題が問題として生じたのかは明確にはならなくなります。
 
たとえ、そうした個人的な問題をすべて、幼少期の傷つき体験に原因を求めたとしても、では、その傷つき体験のそもそもの原因は、ということになると、持って生まれた生得的要因というものがあることになり、では、その生得的要因が生じた原因は、というようにさかのぼると、いわゆる、哲学や神学で言う、「第一原因」ということまでさかのぼってしまうことになります。
 
ですから、まず、問題というものを捉えるにあたっては、意識する範囲を設定することが必要なのかもしれません。
 
例えば、「3+5=」という問題なら、答えは「8」だということは明白ですが、自分を変えたいという場合には、そもそもなぜそうしたいと思うのかという、「そもそも」のところから始める必要があります。
 
しかし、後者は前者からの類推によって、ある程度明確にすることは可能だと思います。
 
「問題とは」ということに関して、簡潔明瞭な定義は、「望むべき状態と現状が一致していない状況」と定義されるそうです。
 
(https://kotobank.jp/word/問題解決-1211988 の、「最新 心理学事典の解説」を参照)
 
そこからすると、3+5の場合でも、自分を変えたいと思う場合でも、「望むべき状態と現状とが一致していない状況」ということは、共通して言うことができます。
 
後者の場合は、「こうありたい自分」と「現状の自分」とが一致していないから、そして、「こうありたい自分」の方が望ましいと感じるから、自分を変えたいと思うわけです。
 
しかし、「3+5」について考察していて、奇妙なことに気がつきました。
 
例えば、リンゴ3個とミカン5個がある場合を考えてみます。
 
それは合わせて、「果物が8個」ということになります。
 
ここまでは、足し算として普通に行われることです。
 
しかし、合わせて8個だと答えを出しても、目の前にあるのは、依然として、リンゴ3個とミカン5個なのです。
 
つまり、3+5=8という問題解決をした場合、変わったのは目の前の現実ではなく、自分の認識の側なのです。
 
自分の認識が、「リンゴ3個とミカン5個」から「果物が8個」に変わったということです。
 
そしてそれは、可逆的です。つまり、「果物が8個」ということは、逆に目の前の現実に即して言う場合に、「実はリンゴ3個とミカン5個だった」というように導かれることも、理論上は想定できます。
 
ということは、少なくともこの足し算で言う限り、問題が解決するというのは、状況の表現形式が変わっただけということであり、逆に言うと、「8=3+5」というように、「8」が問題で「3+5」が解決という場合もあり得るのです。
 
どちらを問題としてどちらを解決とするかは、求めているものが何か、によります。
 
ということは、これは、「自分を変えたい」ということにも、同様のことが言えるのではないでしょうか。
 
つまり、「自分を変えたい」という問題の本質は、自分が現状の自分を嫌っているというところにあり、解決の対象としている自分に問題があるわけではない、と。
 
もちろん、実際には話はこう単純ではありませんが、このように、問題を自分の側に帰属させる発想法は、最近少しずつ見かけるようになりましたし、いわゆる「自己責任」論も、この流れに属しているでしょう。
 
ですが、リンゴ3個とミカン5個という問題を、「果物が8個」というように解決したときに、現状自体が変わったわけではないことから類推すると、極端な言い方をすれば、たとえ嫌っている対象としての自分自体は変わらなくても、それを演算している、つまり解釈している自分の認知の枠組みが変わることで、問題は解決されるのではないかという推察が可能です。

これはいささか乱暴な推論のように見えるかもしれません。しかし、「望むべき状態と現状が一致していない」という表現を自分に適用すると、「望むべき自分」、つまり「こうあるべき自分」という設定は果たして適切だろうか、という疑問があるわけです。
 
例えば、宮沢賢治ではありませんが、「欲はなく、決して怒らず」というような自分を、「望むべき自分」として設定するというのは、果たして適切でしょうか。
 
自分を、「こうあるべき自分」へと持って行きたい、というのは、言い換えれば、自分を「思い通り」にしたいということです。
 
しかしそれは往々にして、例えば、「3+5の答えが6であってほしい」というようなことを、自分に対して望んでいることがないでしょうか。
 
そうすると、ありがちな対処法としては、ルールの方を変えてしまうということをやってしまうのです。
 
どういうことかというと、「3+5」で言うならば、「6」という答えにするために、「計算結果から必ず2を引く」というような「マイルール」を設定してしまうわけです。
 
そうすると、3+5に関しては、「3+5 → (3+5)-2=6」という答えになり、一見、うまくいったかのように見えます。
 
しかし、異なる問題、例えば、「2+3」のような場合には、別に思い通りにしたいという気持ちがなくても、マイルールが機能していると、「2+3 → (2+3)-2=3」ということになってしまい、「あれ? 5のはずなのに」ということになってしまいます。
 
そうすると今度は、別のマイルールを作って結果を出そうとしたり、あるいはこの場合にはマイルールを作動させないというマイルールを設定したりというように、自分を思い通りにしようとすればするほど、マイルールがどんどん複雑になっていき、心の動作は、重いアプリが作動しているように、どんどん気持ちも重くなる、ということがあるのではないでしょうか。
 
実際には、私たちは既に、「3+5である自分」を「なんとかして6に「してしまった」」状態です。ですから、常日頃から心が重くなっています。
 
ですから実際には、望ましい自分でありたいのであるならば、「3+5は8であり、それ以外ではない」ということを受け入れることが必要になります。
 
誰しも、わざと間違えることなど望んでいません。そうではなくて、間違った計算の仕方を「正しい」計算だと思い込んでいることで、結果が間違い、そして、自分がどこでどう間違えたのかがわからないために、混乱を深めていくわけです。
 
例えば、「3+5=8」というのは、自分が自分のことをどう捉えているかとは関係なく成立します。たとえ、自分が自分のことを「悪そのものだ」と信じていたとしても、3+5の結果はそんな自己イメージとは関係なく、8なのです。
 
これは、とどのつまり、自分に関しても同様なのではないでしょうか。
 
つまり、自分が自分のことをどう捉えていようが、本当の自分はそれとは関係なく成立している、とでもいいましょうか。
 
そのことを受け入れることが、言葉の真の意味で、自分に関して「望むべき状態」なのではないでしょうか。
 
ただし、ここで気をつけなければいけないのは、ここまで私が述べてきた推論は、全く逆に作用することも可能であるということです。
 
つまり、さまざまな「状況証拠」を元に、完全に論理的に、自分が悪そのものであるという「結論」を導き出すことも、同様に可能なのです。
 
これは、私自身が本当に苦しんできたことであり、その苦しみを少しでも紛らわせてくれたのが、ここで「3+5は8である」というような、自分とは関係なく成立している論理性でした。
 
こうした論理ならば、自分がたとえ最悪の人間であったとしても、「あなたは悪人だから、正解を教えてあげないよ。ほら、3+5は6だろ、いっひっひ」とはならないわけです。
 
そうしてみると、3+5が気まぐれで6になったり9になったりという混乱した状態と、3+5は必ず8であるという状態と、どちらが愛に根ざしているでしょうか。
 
3+5が必ず8であるのは、私が悪そのものだからなのでしょうか。
 
「3+5=8」を愛と結びつけるのはいささか強引ですが、しかし、それはどんな人にとっても分け隔てなく真実であるというのは、まさに、愛の備えている特質ではないでしょうか。
 
ですから、論理性というのは、適切に用いれば、深く自分を癒やす手段にもなると私は思います。
 
さて、話が長くなりましたが、問題が解決するとは、ひとえに、自分が問題だと感じている側ではなく、それを問題だと捉える認知の枠組みが変わることではないか、ということが、今回の私の記事の要点です。
 
ただしこれは、あくまでも認知の枠組みの話であり、実際には、形として具体的に解決していかなければならないのが普通です。
 
しかし、その場合でも、3+5を6にしようとするような、「望ましい自己イメージ」に「こうである自分」を合わせる、というような解決策を試みるのではなく、3+5は8であるという本来の自分に戻るシナリオが展開するままに展開するのを受け入れるというように生きていくことが、最終的には問題という意識自体から解放されることなのではないかとも思います。
 
もちろん私はそんな境地にはとても達していず、ただなんとなく、推論としてほのかに感じるのみですが。