これまでは「美しさ」について、日の当たる部分に注目し、肯定的な側面だけを捉えて書いて参りましたが、今日は、ちょっと別の視点で考えてみたいと思います。
つまり、「美しさ」という言葉の、負の側面についても触れておく必要があると思うのです。
「美しい国、日本」というスローガンで、一時期マスメディアを賑わせていた安倍首相ですが、今般のコロナ騒動を皮切りに、すっかり底無し沼にはまり込んで、「美しさは、どこ吹く風?」といった感じです。
彼の口から発せられる言葉は、シャボン玉のように中身が空っぽで、ふわふわ風に吹かれて、すぐに弾けて消えてしまいそうです。
そんな彼のバックボーンには、当然イルミナティ・サタンが潜んでいるわけで、結局彼らが掲げたスローガン「美しい国、日本」は、まやかし以外の何物でもないことが、露呈してきています。
彼らの言う「美しさ」は、サタンに従い、サタンに身を捧げることができる者が美しいとし、ピラミッド構造のトップの者だけが潤い、贅沢三昧をし、下層部にいる私たち奴隷を思いどおり支配できる体制が、彼らの言う「美しい国、日本」なのです。
過去を振り返っても、ずっと、そのピラミッド構造は変わらず、どの時代においても、イルミナティ同士の覇権争いが絶え間なく続き、それに振り回されながら、奴隷のように生きて来たのが私たちの祖先です。
「お上の言うことさえ聞いていれば、世の中安泰だ」という社会風土の中で洗脳され、無思考人間に陷った私たち奴隷が一番血を流し、涙に明け暮れるという、悲しい、そして虚しい歴史が刻まれて来たのは、今に限ったことではないのです。
私の親世代の人たちが、骨身に染みるほど、戦争の悲惨さを経験してきたわけですが、二度と同じ経験を子や孫にさせたくないと必死に説く語り部も今はもう、ほとんどおられません。
代わりに、過去の戦争の悲惨さを訴えながらも、片方では、お国のためなら己を犠牲にすることを厭わない、そのような登場人物を美化し、ヒーロー的に扱っている映画やドラマが相変わらず注目されたりもしています。
このように、「美しさ」というものを、間違った形で主張して行くと、大変危険な方向に利用されてしまう恐れがあります。
「美」とは、「神さまの愛」であると以前のブログで書きましたが、愛のやり取りが神さまに向かっている時は、本当の「美」を見出すことができます。
それに対して、本当の神さまの存在を知らず、イルミナティ・サタン側に献身的に身を投じても、それは「美」とは言えないのです。
むしろそれは、「醜」に向かっているだけです。
私たち奴隷が、本当の「美」を見出せず、無思考状態で、只々毎日の生活に追われるだけの人生で終わってしまうのも、結局、本当の神さまの存在を知ることがないからです。
仮に、神さまを拝んでいたとしても、その対象は、本当の神さまではなく、神さまという仮面を被ったサタン(悪魔)でしかありません。
「美」=「羊」+「大」
=大きな羊を生贄にすること
=血の犠牲を神に捧げること
=イエスさまが人類救済のために成されたこと
=大いなる神さまの愛
このように、「美」という漢字は、イエスさまが、人類全ての罪を贖うために成された自己犠牲こそが、本当の「美」であることを示しています。
ですから、イエスさまのことを知らずして「美」を語ることはできないのです。
本当の神さまのことを知らずして、あるいは意図的に隠して「美」を語ることは、偽りの美しさであり、偽善です!
「美しさ」という言葉を耳にする時、その裏にサタンが潜んでいる場合があるということを忘れてはなりません。
「美しさ」という言葉の、負の側面を知った上で、私たちは「美」を追求して行くことが大切です。
決して、イルミナティ・サタン側の思惑に、はめられないように、用心して「美しさ」という言葉を使っていきましょう。
(2020.6.6)