高森顕徹会長の信心決定はウソだった(1) | 親鸞会の本尊論に対する疑問

高森顕徹会長の信心決定はウソだった(1)

729 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 15:52:07 ID:e3ThLpeM

T森会長は、「いつとはな~しに」救われた!!!!!!!!!

■■■■■T森会長爆弾発言■■■■■

次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ
次第にその迷雲も晴れ


730 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 16:24:34 ID:8zeKdWjM
>>729
それどこに書いてあるの?


731 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 16:46:50 ID:aKvgC7n7
>>730
http://seaglet.sakura.ne.jp/cgi-bin/dictionary/html/tdv212.html
学校の伝道部に入り、一意誠らしく話してみたが、真の安心はできない。或る人は信心を戴かない伝道は奇弁だと非難する。
それについても私は非常に恥ずかしかった。穴があれば入りたい気もしたが、どうにも私を迷わせただけでありました。
名誉獲得に常に走る我が心を哀れと思いながら、なおそれを覆い隠そうとする迷雲は、なかなか私を仏道に近づけなかった。
そこでまた私は、聞くということが我が真宗では大切であると言われるから、大いに聞こうと毎晩毎晩総会所にお参りさせて
いただきました。ところがいかに説教を聞いても「うまく言うない」「フフン」とあざける内心に何だかいやになり、
或る晩もあまりに自分の立場に苦しみ、ひとつ徹底的に私の理解を促したいと、布教使さんのもとに行き、自分の疑っていた
ことを問いただしてみたが、これも明解を得ず、満足せずに悲しく淋しい闇夜を帰ったこともありました。
何とかして私達に、地獄の存在、極楽の有無を確実に指してくれる人はないか。
求めつつ、ややもすればこの解答をなし得ざるを自身の偉きが如く考え、人をも迷わし、自分も迷いながら、
実に毎日仮夢をやっていたのであります。はからずも夏休み数日前に、M井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、
半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、
さらにまたK光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。
ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。
南無阿弥陀仏々々々々々々


733 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 16:52:22 ID:aKvgC7n7
>>731
続き

これも諸兄の方々のお骨折りによるものと、さらに大悲の無限の方便摂化に、ただ感泣するのみであります。
毎日毎夜、念仏は楽しい時に苦しい時に、無造作に口より出づる蓄音機にさせていただいて、有難き弥陀の呼び声を聞かせて
いただけます・・・ただただうれしさで一杯なのであります。南無阿弥陀仏
今や、地獄極楽の存在など疑ってみようとする心の恐ろしさに身をば悶えるのであります。ただ南無阿弥陀仏々々々々々々
しかし日常生活は煩悩の起こりづめで、ことさらに変わったところもなく、といってそれとて一時の間で、後は悲しみも楽しみにさせて
いただいております。今後ともますます諸兄の御指導をお願い致す次第であります。

九月に入って、夏休み中の研究レポートを出し合いました。 帰途、T君のレポートを歩きながら目を通していた私は、胸が 熱くなって、そのまま彼の下宿にとってかえしました。
「おい、きみ、よかったなあ・・・」 と、手を取りあって法悦 を語り合いました。 彼は、私から手渡されていた恩師(I藤康善師)の入信体験記「B敵」 にかじりついて、
無常観、罪悪観をつき進めて、 ついに獲信したようでありました。
____________________________________________________________

さて、シンパが善知識T先生の手記↑をいつものように「アンチによる捏造文章」と決め付けるかどうか、
楽しみに待ちたいと思います。


735 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 17:26:30 ID:jAVZm6It
またアンチの捏造か


736 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 18:10:21 ID:weTBzRC5
捏造ちゅうか長~い文章の一文だけヒョイと持ってきて叩いてるだけのような気がする。
こんなの血まなこになって探してる奴いるんだなあ。

・・・ってゆうかその文章全体が難しくてよく解らん。^^;


738 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 19:11:40 ID:34/s36q7
>>736
信心に関わる重要な部分だと思うんですけどね。
受け入れられないんなら別にいいですよ。
あなたの人生だし。

誰でも自分が選択したものを否定されたくないですから。
気持ちは分かります。


739 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 19:20:18 ID:aybT8oei
ほう!信心に関わる重要な部分ですか!
では徹底討論しましょう!


740 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 19:30:50 ID:aybT8oei
アンチの皆様も、いつとはなしに救われるのが真実信心ではないと思っておられるのですね!


741 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 19:36:40 ID:guRZMb96
獲信の記録 (ぎゃくしんのきろく)

【更新時刻】 2007/04/10 00:57:06
【分類】 [活動] [発行]
【参照URL】
【関連語】 化城を突破して、
【意味】 (→意味追加)

(1) 高森顕徹氏が華光会の同人であった頃に出版した著書。当時の販売価格は100円。
1948年12月25日に印刷、1949年1月5日に華光社から発行された。
また、1950年3月1日に再版された。

初版の際には『化城を突破して』というタイトルであったが、再版の際には『獲信の記録』と改題された。
内容は高森顕徹氏が関係した5人(富山県の華光会同人)の獲信の記録と華光会主筆で高森顕徹氏の師でもあった
伊藤康善氏を囲んでの座談会の模様、そして「信心数え歌」が収録されている。座談会は1948年8月下旬に高森顕徹
氏の出生した真宗末寺である遠景寺で行われた。

「信心数え歌」は親鸞会の正信聖典にも収録された。

図書紹介のページには高森顕徹氏の師である伊藤康善氏の著書『仏敵』と華光会の機関紙である『華光』が載せられている。
http://seaglet.sakura.ne.jp/cgi-bin/dictionary/html/tdv212.html


745 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 20:50:10 ID:y0rCOIyn
218 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 02/10/20 19:03
減益時代、会長は18歳の時に篤信の老婆の臨終説法を真剣に聴聞して、獲信されたと先輩に聞いた。
上記の話について、何方か詳しく知っている方がいたら、情報求む。


220 名前: 名無しさん@一周年 投稿日: 02/10/20 19:48
>>218
初耳! 臨終説法というのは、普通死にかけの人に対する説法だが、老婆に
対する誰かの説法か? 老婆が誰か死にかけの人に対してしてたのか? 
もし、この篤信の老婆自身が危篤状態まで熱心に説法していたのを聴聞した
の意味なら、まさに上記の伊藤康善氏(華光会創始者)の「仏敵」の内容と
ソックリだな。


221 名前: 名無しさん@一周年 投稿日: 02/10/20 20:10
>>220
華光会の本で『われらの求道時代』ってのに、よると華光会時代の高森氏は
当時の信者が語るところでは、「『仏敵』をいついつまでに読んで信をいただき
なさい。」って指導していたらしいよ。
この話が本当で減益が言うように、邪義
だったんなら高森氏は当時の邪義をひろめていたことを公式に懺悔せにゃ
ならんと思うが。


222 名前: 名無しさん@一周年 投稿日: 02/10/20 20:22
>>218
T森氏は、横田慶哉師の『吾が信念』に出てくる師の体験をさも自分の体験の
ごとく説砲で語ってたから、『仏敵』の内容をさも自分の体験のごとく語ってた
可能性もあるのでは?


747 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 23:22:04 ID:guRZMb96

http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/

次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。
ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。

これが高森氏の信仰体験だそうです。一念で疑惑が晴れるのが浄土真宗の救いではなかったのでしょうか。
親鸞会の人は高森氏の信仰を絶対のよりどころにしていますが、どうもそれすらも怪しく思えてきます。


753 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 23:53:32 ID:34/s36q7
とりあえず高森会長が一念で疑いの晴れた人ではないと言うことが分かった。


754 :神も仏も名無しさん:2007/05/08(火) 23:57:50 ID:KJ2CbXoq
てか、「迷雲」を何ととらえるかが問題だと思うが。


763 :神も仏も名無しさん:2007/05/09(水) 21:41:45 ID:7Zubq29u
>>731
>次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。

国語辞書との一致 (1~1件目 / 1件) 検索辞書:大辞泉 
提供:JapanKnowledge

しだい‐に【次第に】
[副]1 物事の程度や状態が少しずつ変化・進行するさま。だんだんと。
徐々に。「病気が―よくなっていく」

2 序列・順序に従って物事をするさま。順々に。
「数(あまた)の検非違使(けびゐし)官人等、東西に―... [さらに]


大辞林の結果を見る

類語辞書との一致 (1~1件目 / 1件) 検索辞書:必携 類語実用辞典 
提供:三省堂

しだいに【次第に】
⇒だんだん【段々】 ⇒おいおい【追々】 ⇒すこしずつ【少しずつ】 


821 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 13:25:55 ID:iY4RNbg4
>>820
「次第に」は解ったけど「迷雲」の意味は何なの?


822 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 13:31:01 ID:sTcRG+TK
>>821

>次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。

今日までの悪疑を恥づる…とあるので、「迷雲」=「悪疑」でしょう。


823 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 13:33:18 ID:iY4RNbg4
「悪疑」の意味は何?


824 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 13:57:06 ID:sTcRG+TK
>>823

「疑情」か「疑煩悩」のどちらかでしょうね。


827 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 17:31:39 ID:2JSwZs0D
>>820
>「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで
>紅楳氏は「いつの間にやら、疑いが無くなるということもあるでしょうね。
自分は、もう疑いはないね」とのこと。
>「もう、阿弥陀仏の本願に疑いはないのですね」と聞くと、「私は、もう疑いの
心は出ないだろうね」と、なんとも曖昧な答えでした。
>この発言そのものが、未だ救われていない自力の信心の証ではないでしょうか。
他力の信心は、あっという間もない一念に「弥陀の本願に、疑心有ることなし」と
微塵の疑いもなくなった世界ですから、こんな言葉は出ようがないと思います。


高森会長
「次第にその迷雲も晴れ 」


>この発言そのものが、未だ救われていない自力の信心の証ではないでしょうか。
他力の信心は、あっという間もない一念に「弥陀の本願に、疑心有ることなし」と
微塵の疑いもなくなった世界ですから、こんな言葉は出ようがないと思います。


828 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 18:01:47 ID:I18JZn2N
■■■検証!!高森氏の「迷雲」は疑情か疑煩悩か!!■■■

高森氏の救いの体験は親鸞会会員には伏せられています。しかし、このたび貴重な
氏本人の体験録がupされました。ここには、なぜ氏が会員に対してこの体験を伏せ
ねばならなかったか、その理由がはっきりと看取できます。その理由とは、親鸞会
の教義の根幹、「一念の救済」が根本的に破壊されてしまう内容だからです。

以下、検証いたします。ポイントは2回出てくる「迷雲」という語です。

>なおそれを覆い隠そうとする迷雲は、なかなか私を仏道に近づけなかった。

この記述は信前であることは明らか。この「迷雲」は疑情に間違いない。この
ことは次の引用からも明らかである。

>そこでまた私は、聞くということが我が真宗では大切であると言われるから、
>大いに聞こうと毎晩毎晩総会所にお参りさせていただきました。

この記述も信前であることは明らか。まだ「聞く」ことをしていない段階である
ためである。

>何とかして私達に、地獄の存在、極楽の有無を確実に指してくれる人はないか。

これまた信前であることは明らか。二種深信がないためである。

>人をも迷わし、自分も迷いながら、実に毎日仮夢をやっていたのであります

これまた信前。ところが、、、


829 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 18:02:26 ID:I18JZn2N
上つづき
>親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった
>書物により、さらにまたK光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日
>までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのまま
>でよい」とは何と有難いことでしょうか。南無阿弥陀仏々々々々々々

これは信後を述べていることは明らか。するとこの「迷雲」は疑情であったことが
判明する。「その」迷雲と言っていることからも、第一の「迷雲」との同一性は疑
いない。それ以外に「その」が示しうる内容はない。

■結論■
高森氏の述べる「迷雲」とは、「疑情」であり、高森氏の「疑情」は「次第に」
晴れたことは明らかである。ゆえに、「高森氏はいつとはな~しに救われた」。
以上


830 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 18:12:12 ID:I18JZn2N

会員の方、↑の推論に反論よろしく。

私個人としては、これ以上大きく親鸞会を揺るがすソースはないと考えてます。

正直、M晴事件など、比にならない重大な事実だと思いますがいかがでしょう?

福田-斎尾論争から、思いもよらぬ副産物が出てきました。ちなみに最初の引用者
である斎尾氏の「疑煩悩」説は、解釈としては不可能だと思います。親鸞会を除名
になっても、まだ高森氏だけは否定したくないためだとおもいますが、それでは
まだ知的誠実に欠けるのではないでしょうか?


831 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 18:50:30 ID:EL7L8lDP
>>830
その一文だけで凄まじい粘着ぶりですね。
他の親鸞会の書籍どこを読んでも一念の救いが説かれてあるのに。

あなたが一念の救いが真実だと思ってるならそれでいいじゃない。
高森先生がどうであろうと救われるまで進んでください。


832 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 19:13:37 ID:I18JZn2N
>>831
>その一文だけで凄まじい粘着ぶりですね

はい。

内容についての反論をどうぞ。


840 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 21:21:57 ID:edPAWm7w
>>828
>>なおそれを覆い隠そうとする迷雲は、なかなか私を仏道に近づけなかった。

>この記述は信前であることは明らか。この「迷雲」は疑情に間違いない。

信前だから「迷雲=疑情」の論には無理があるだろうね。
「それを覆い隠そうとする」の「それ」は何かというと、

>名誉獲得に常に走る我が心

なので、弥陀の本願に対するものではないと思うが。


841 :次第にその迷雲も晴れ:2007/05/11(金) 21:32:13 ID:I18JZn2N
>>840
>「それを覆い隠そうとする」の「それ」は何かというと、

>>名誉獲得に常に走る我が心

>なので、弥陀の本願に対するものではないと思う

あなた大丈夫ですか?「それ」とは「名誉獲得に常に走る我が心を哀れと思」
うことに決まってるでしょうが!!

もしも「名誉獲得に走る我が心」なら、名誉欲を覆い隠してくれる「迷雲」って
めっちゃ善玉だよね。その迷雲、仏法に近づけてくれるじゃん(笑)。

では、それを前提に、

>信前だから「迷雲=疑情」の論には無理があるだろうね

とありますが、どう無理があるか、是非、教えて下さい。よろしく。


843 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 21:55:04 ID:edPAWm7w
>>841
まあ、どちらでもいいのだが。

「名誉獲得に常に走る我が心を哀れと思う」でも「名誉獲得に常に走る我が心」でも、それを覆い隠そうとするものが「疑情」と結論づけられますか?

できないから「無理がある」と考察したまでですが。


845 :次第にその迷雲も晴れ:2007/05/11(金) 22:09:41 ID:I18JZn2N
>>843
>どちらでもいいのだが

石に漱ぎ、流れに枕す

>「名誉獲得に常に走る我が心を哀れと思う」でも「名誉獲得に常に走る我が心」でも、
>それを覆い隠そうとするものが「疑情」と結論づけられますか?
>できないから「無理がある」と考察したまでですが。

その「できない」理由を教えて下さい。
ごまかさずに答えてくださいね。非常に楽しみです。

ちなみに「できる」理由は次のとおりです。
①引用文から、「迷雲」は、信前のものであることが明らかである。
②引用文から、この「迷雲」が晴れたことによって信後に出ていることが明らかである。
③①②より、信前信後が「迷雲」の有無によって区別されている。
④したがって、「迷雲」=「疑情」である。

では、あなたの主張を聞かせてください。かなり厳しい立論になると思いますが、
頑張って下さい。よろしく。


846 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 22:31:15 ID:7+svXfgd
「定水を凝らすと雖も識浪頻りに動き、心月を観ずと雖も妄雲猶覆う、
而るに一息追がざれば千載に長く往く」(親鸞聖人)

このように親鸞聖人も煩悩のことを雲にたとえておられます。
だから迷雲というのは疑煩悩のことでありましょう。


847 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 22:33:39 ID:edPAWm7w
>引用文から、この「迷雲」が晴れたことによって信後に出ていることが明らかである。

なぜ「信後」であると言えますかね。

>次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。
>ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。

悪疑を恥づるに余念がないのも、
「そのままこい」「そのままでよい」を有り難く思うのも、信前でもあり得るでしょう。


848 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 22:37:03 ID:LuyMuowc
信前とも信後とも取れない文章を、勝手に信前信後と決めつけているからタチ悪い。


849 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 22:39:12 ID:+Ej4+v9B
迷雲が何かは何かわかりませんが、華光におられたときは異安心に迷われて、その後、18のときに信心決定されたということは考えられますね。だから振り返って土蔵秘事に類する異安心とさとられたという考えも成り立つますね。詳しくはわかりませんが。


850 :次第にその迷雲も晴れ:2007/05/11(金) 23:00:05 ID:I18JZn2N
>>847
>悪疑を恥づるに余念がないのも、「そのままこい」「そのままでよい」を有
>り難く思うのも、信前でもあり得るでしょう

やはりあなたは立論を避け、私の分節化した論拠を批判するだけでしたね。

では、華光会発行『華光』第5巻の第5号

>これも諸兄の方々のお骨折りによるものと、さらに大悲の無限の方便摂化に、
>ただ感泣するのみであります。毎日毎夜、念仏は楽しい時に苦しい時に、無
>造作に口より出づる蓄音機にさせていただいて、有難き弥陀の呼び声を聞かせ
>ていただけます

も信前のことだと主張されるのですね?

また、
>九月に入って、夏休み中の研究レポートを出し合いました。 帰途、T君のレポート
>を歩きながら目を通していた私は、胸が 熱くなって、そのまま彼の下宿にとってか
>えしました。「おい、きみ、よかったなあ・・・」 と、手を取りあって法悦 を語り
>合いました。

も信前だと主張されるのですね?

是非、返答をお願いします。


851 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 23:10:50 ID:edPAWm7w
>>850
避けてませんよ。
よく読んで下さい。

>「迷雲」が晴れたことによって信後に出ていることが明らかである。

と主張されているので、
「なぜ信後に出ていることが明らか」なのか、と聞いているのです。

私は、「信前」とも「信後」とも、どちらか一方に決められるものだとは主張していません。

断定できますか? と言っているのですよ。


852 :次第にその迷雲も晴れ:2007/05/11(金) 23:17:33 ID:I18JZn2N
>>851
>断定できますか?

はい。

>これも諸兄の方々のお骨折りによるものと、さらに大悲の無限の方便摂化に、
>ただ感泣するのみであります。毎日毎夜、念仏は楽しい時に苦しい時に、無
>造作に口より出づる蓄音機にさせていただいて、有難き弥陀の呼び声を聞かせ
>ていただけます

>九月に入って、夏休み中の研究レポートを出し合いました。 帰途、T君のレポート
>を歩きながら目を通していた私は、胸が 熱くなって、そのまま彼の下宿にとってか
>えしました。「おい、きみ、よかったなあ・・・」 と、手を取りあって法悦 を語り
>合いました。

これは信後のこととしか解釈できないからです。


853 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 23:22:17 ID:LuyMuowc
断定できっこないね。
とにかく「次第に」で突っ込みたくて仕方ないんだろ。


855 :神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 23:35:19 ID:4tV1t5/u
次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。


疑情が消え失せ極楽往き間違いなしという人生最大の喜びが瞬間的に起こったのなら、
「次第にその迷雲も晴れ」などと書くのは、不自然だ。

何かしらの喜びの変化が起こった後の感激が表されているのは確かだけれど、
瞬間的に起こったと強調するのは、やはり無理がある。


※高森顕徹会長の信心決定はウソだった(2)へ続く

http://ameblo.jp/honzonron/entry-10033474087.html