終わらないディナーパーティ | 湧flow

終わらないディナーパーティ

ふっと、ジュディ・シカゴの名前を思い出してネットで検索。
なんと先月末、16年ぶりに来日して女子美で講演を行ったんだそうです。
行ってみたかったぁ。とても残念( ´(ェ)`)。

Judy Chicago(ジュディ・シカゴ)は、シカゴ生まれのフェミニズム・アートの先駆者です。
私の卒論は「女性像の象徴的表現」と題したものだったのですが、
女性がアーティストであることの意味と、男性アーティストとの違いの疑問を呈することから始まり、
古今東西の女性アーティストを並べて、最後は現代の女性アーティストとしてジュディ・シカゴを取り上げて締めくくりました。
何でジュディ・シカゴだったかっていうと、たまたま本屋で「花持つ女」(PARCO出版)っていうジュディの自伝をみつけ、面白かったから。

作品を真似ることはありませんでしたが、当時の私は闘う彼女の半生をカッコイイと思ったんですね。
「ディナー・パーティー」っていうインスタレーション作品が代表的で、これはテーブルに歴史的に有名な女性の席を設定し、それぞれにデザインされたテーブルクロスと、女性器をイメージした絵柄のお皿が並んでいるものです。

16年前、ジュディ・シカゴが来日することを知った私は、神奈川での講演会に行きました。
何もつくらず、何も描いていなかったし、辛い結婚生活でくたびれ、アートのにおいのするものから遠ざかっていた当時の私にとって、その講演会は刺激的でした。
その時、確かジュディ・シカゴは、パワーゲーム(だったかなぁ)というテーマで、力を振りかざしてきた、あらゆる男性性への抵抗みたいな作品に取りかかっていたように記憶してます。
まさにパワーに押しつぶされそうになっていた私は「そぉなのよっ!!」とえらく心動かされ、アンケートに、その時の感動を支離滅裂に書き殴って会場を出ました。

この時は、すぐに何か影響があった訳じゃないけど…、私が今日ふっとジュディ・シカゴの名前を思い出したのは、「パワー」ってことについて考えていたから。
「パワー」について思いを巡らすきっかけは、先日見たDAYS JAPANの記事。
写真から放たれる負のパワーに、みぞおちのあたりにドスンと鉛の玉を打ち込まれたような怒りと、胸が悪くなる感じを味わいました。
たぶん、パワー自体に良い悪いがある訳じゃなく、要はどう使うかってことなんだろうけど、それが男性性と結びつくのは、本能的に「パワー」を志向する人が男性に多いからなんじゃないかなぁ…。

ってことから考えると、私から見るとジュディ・シカゴさんって、結構男性的なアーティストなんですよね。力に力で対抗してる感じが…(^^;)。
「パワー」に対して、多くの女性(女性性?)が本能的に志向するものって何なんだろうな?
20数年前の私の拙い卒論は「結局、何が言いたいの?」という中途半端なまとめ方でしたが、これをつきつめれば、卒論の結論にたどり着くのかもしれません走る人