田口線を訪ねる旅。設楽町にはいるとだんだんと”山”を実感してきます。

改めて、この旅について。

 平成4年(1992)当時の田口高校1年生の文化祭の企画として田口線を特集しました。そのとき実際に田口線の跡を訪ねながら取材をした旅です。ここでの”現在”は平成4年です。




長原前駅



 田峯駅から長原前へは、寒狭川を渡った向こう側にある。鉄橋を渡って駅に着いたわけだが、その鉄橋が現在ではないため、どこから渡ったのかよくわからない。ただ、信号のところの橋を渡るとそこはすでに線路跡である。ここも大草駅同様、通行止めの獣道が続くので、一度清嶺トンネルまで行き、そちらから訪ねた。





鉄橋 川は寒狭川





 車が入れない道になった


 清嶺トンネルの手前の道を右に曲がると山の神の碑がある。このあたりから車は入れない。停留所跡を見つけるため、そのまま道を進んでいったが、途中で崖崩れを何カ所も発見しただけで、プラットフォームらしきものは見あたらない。昭和43年8月29日の台風でこの辺り一帯が崖崩れに遭い、廃線の日には清崎田口間は不通になった。それ以来何度も崖崩れに遭っているのだろう。その先にトンネルがあるが、そこから先は木が倒れている上に土砂で埋まってしまい、行く事はできなかった。






山の神の碑







山の神の碑のところが小高くなっているので、ここが駅跡だと勝手に考えた



 結局ホームを見つける事はできず、たぶん山の神の碑あたりが長原前駅だと見当をつけ、写真を撮った。そこから清嶺トンネルの方を見ると、当時のトンネルの跡が木の間から見えた。清嶺トンネルを横切る形でそのトンネルはあった。このトンネルは清嶺トンネルができたとき、塗りつぶされてしまって今は向こう側に出る事はできず、中側から確認する事ができない。このトンネル、木で阻まれていたり、崖崩れがあったりして、まるで洞窟のようだった。


 



 記録によると長原前駅は当時無人駅であったが、駅近くにある清嶺中学校に通う生徒や教員たちが利用していたらしい。三河大草同様暗い道を毎日通っていたのだろうか。

 


 田口線の思い出

 

 (生徒の保護者アンケートより)


 

 田口線は単線のため、田峯駅での列車交換が多かった。南側は段戸山から切り出してきた材木と、製品の積み出しように広場があった。田峯駅を出てすぐ、鉄橋を渡った。寒狭川を渡る橋は4カ所あった。

 昭和30年頃、田口から豊橋行きの直通(飯田線の後部に直通)があった。

 田口線には5両の車両があり、一台は郷土館に展示、一台は廃車、一台は渥美線として活躍中だという事である(昭和57年現在)

 田口田峯間の通学定期は700円だった。当時野田峯駅の近くには歯医者、少し離れて診療所(町営)があった。

 稲目トンネルのなかでの列車は早さ40~50キロメートルだったようで、新聞は電車で運ばれ、各駅で下ろされた。朝夕は2両連結の車両であり、お見合いの座席だった。

   (当時40代 男性)




 白井良和氏撮影



 私は、昭和4年田口鉄道に入社し、三河海老に勤務しました。翌年清崎駅に転勤、田口駅が開通すると田口駅勤務、車掌になり、その後運転手になりました。

 当時の値段は

  田口清崎間   10銭

  清崎田峯間   7銭

  田峯海老間   12銭

  海老玖老勢間 7銭 

バット(たばこの銘柄)7銭でした。

 当時の田口駅は売店、官舎があり、なかなか賑やかでした。

     (当時80代 男性)

 



 
文化祭当日風景 田口高校の制服は今も変わっていません





追記

 本文中に出てくる清嶺トンネルは私が転勤する少し前にできた新しいトンネルで、それまでは山を越えていたようです。


 また、清嶺中学校は私が転勤した後、平成13年に廃校になり、現在は子どもたちは田口の設楽中学に通っています。




清嶺トンネル



清嶺中学校


 なお、正式な長原前駅は別の場所だったようで、他の方のホームページにおるとやはりトンネルを通った向こうだったようです。