その日の昼過ぎのこと。キョーコは椹のおつかいで、バラエティ番組の準備のため、右近ジョーが入院中の病院をたずねた。
それにはワケがあった。右近のところにLMEの事務所のスタッフが訪問すると、マスコミにちょいちょいと追いかけ回され閉口するのだ。だがキョーコが訪問すると、何も知らない未成年のおつかいタレントに聞いても無駄だと、マスコミが寄ってこない。しかもキョーコは、右近のストライクゾーンからは外れた「お子ちゃま」だ。不倫相手だのやいのやいのとマスコミに取り上げられることもない。
右近の病室をノックすると、無表情の年輩の女性が応対してくれた。右近との会話の様子を見ていると、おそらく妻だろうと思われた。
妻は、キョーコに対してかなり刺々しい雰囲気なので、キョーコは萎縮しながら右近と話す。
右近はかなり回復していて、少し痩せはしたようだが、元通りのオーラを取り戻しつつあった。
キョーコがおや、と思ったのは、右近は明らかに妻のご機嫌うかがいをしているからだ。それは言い換えると、甘えているとも、過剰なスキンシップをとっているとも言えた。
目の前の二人の姿を見たキョーコの女の感は、拗ねてツンツンしている妻と、なんとかご機嫌を取り戻そうと足掻く夫の図だと解釈している。
右近の女遊びにはワケがあったのかもと、なんとなく、キョーコは考えはじめた。
書類に目を通し終わった右近からキョーコが言付けを聞いていると、ドアがノックされ妻がドアを開けた。
キョーコが振り返ると、そこには小林愛弓が立っていた。
キョーコが驚きに不自然な程に目をひんむいていると、それには全く気付かない愛弓が挨拶をする。強張った顔で、「いつも非常にお世話になっているのでお見舞いに参りました。」と。それを受けて、「あらあら、何のお世話かしらねぇ。」と妻が薄ら笑いながらぼそりと呟く。右近は完全に表情が無い。病室の空気が急激に重苦しくなり、キョーコはいたたまれなくなった。
愛弓は、右近のお見舞いにと、右近の好物のケーキの箱を抱えていた。
右近に近付いた愛弓が手渡ししようとしたが、するりと間に入った妻が、「うちの人はまだ病み上がりなので、そういったものは…」と侮蔑の視線でケーキの箱を見下ろす。
「そ、うですね。じゃあ、皆さんで…」
と愛弓が続けると、
「察してくださいな。」
と妻に一蹴される。
愛弓はぐっと唇を結ぶと、ペコリと頭を下げて病室を出ていった。
キョーコは思わず「わ、私もおいとまさせていただいてよろしいですよね?」
と早口に言う。右近が、ハッとして首を縦にコクコクっと振った。
書類を抱えて病室を出たキョーコは、廊下で雑誌記者に捕まった愛弓を見つけた。
愛弓は口を真一文字に結んだまま、無言を貫いていた。
「でもね〰お仕事と言われましてもね〰。あなたは報道。彼はバラエティ。完全に畑違いじゃないですかね〰。ねぇ、なぜここに来たのですか?教えてくださいよぉ。こーっそりでいいんですよぉ、こーっそりで、ね?」
などと、何がこっそりなのか意味不明なことを並べたてて、記者はしつこく食い下がっているようだ。
キョーコはひとつ深呼吸をすると、スタスタと二人に近づいた。
「助かりました。どうもありがとう。病室に入る前にもしつこくて困ってたの。」
病院の出口に近いところまで連れ立ってきた二人だったが、キョロキョロと周りを確認した愛弓が、小声でキョーコに礼を言う。
「あ、いえ!むしろ余計なお世話だったらすみません。でも、ああでも言わないとあの記者が引き下がらなさそうだったから。でも、仕事でお世話になってる方のお見舞いなのに、ああやってまとわりつくなんて失礼ですよね。」
愛弓と記者の間に割って入ったキョーコは、愛弓とキョーコが仕事の幅を広げるために、報道やバラエティ関係なく勉学中なのだと訴えたのだ。
半信半疑な顔の記者だったが、愛弓もキョーコに合わせてくれ、二人で足早にその場を去ってきたところだ。
「あ、私、京子と申しまして、LMEでタレントをさせてもらっています。」
キョーコは、表情の無くなった愛弓と二人きりな状況が気まずくなってきた。
「あ、た、多分、私たち、奥様に不倫相手だと思われちゃってましたね。えへへ。」
キョーコは沈黙に耐えられなくなり、それに、愛弓はなんせ蓮の彼女なのだ。右近と不倫などしているはずもない。そんな考えから、軽い気持ちでポロリとこぼした。
愛弓はそれには答えずに、「これ、突っ返されちゃった。」とケーキの箱を見下ろして呟く。
「あ、ねぇ、京子さん?」
「はいぃ?」
いきなり名前を呼ばれて真っ直ぐに見つめられ、キョーコはキョドキョドとしてしまう。
「ケーキ、よかったら一緒に食べません?と言っても、出戻りな品で申し訳ないけど…。もう少し私たちが一緒にいた方が、もともとの知り合いなんだってあの記者にも説得力があるし。」
「ぇ…?」
と、目を瞬いたところでキョーコのお腹がきゅるるるるんと鳴る。
(…そういえば、!あんなことがあったから朝ごはんも昼ごはんも食べてなかった!)
キョーコが真っ赤になってワタワタしていると、キョトンとした顔の愛弓のお腹もぐうぅっと鳴る。
「……!そういえば、緊張してて、朝から何も食べてなかったわ…。」
と、愛弓が自分自身が信じられないと言わんばかりの顔で呟いて、二人でケーキを食べることになった。
自販機で紅茶を購入し、ロビーの横のフリースペースに移動した。
箱の中には8種類のケーキが入っていた。どれも小振りながら、洗練されたデザインで、宝石のような美しさだ。
「綺麗…。食べるのがもったいないですね。それに、どれにするか迷っちゃう。特に今みたいにお腹空いてると、あれもこれも食べたくなりますよね〰。」
キョーコは、少し緊張がほぐれて楽しい気分のまま言った。ところが愛弓から反応がなくて、不思議に思っていると、愛弓がぽつりぽつりと話しだす。
「どれもこれも美味しそうで、どれか一つだけなんて選びきれない。でも結局は、どれをつまみ食いしても同じなのよね。どれもナンバーワンにはなれないし、オンリーワンにもなれない。」
愛弓は紅茶を一口飲んで続ける。
「8個の綺麗なケーキをつまみ食いして小腹を満たしたら、今度は本当に空腹を満たすために、出汁の効いた和食が恋しくなるのかしら。」
キョーコの真剣な視線に気付いた愛弓は、ハッとすると、悲しげに笑った。
「あなた、敦賀蓮さんと同じ事務所でしょう?彼に、ごめんなさいって伝えてくれる?やっぱり三ヶ月どころか一ヶ月が限界でしたって。あの夜は仕事まで融通利かして、よくしてくれたのに、申し訳ないって。」
ああ、タワービルの料亭から出てきた時の話か、とキョーコは思った。
「あのコーディネート、とても素敵で気に入っていたから、三ヶ月後に着て、彼を訪ねようかとも思っていたんだけど。」
自嘲気味に笑う愛弓は、キョーコに話しているというよりは、独白しているようにみえる。
(あ、あのタインティーの?
…敦賀さんが、男性が洋服を用立てるのは、『その女性をどうにかしたい時だ』って言ってた…。愛弓さんに、三ヶ月後に着てほしいって気持ちで送ったの…かな。)
キョーコは今朝の『綾子さん』の情景が思い出されて、すぅっと血の気が引くのを感じた。それでも、取り乱さないように愛弓の存在に集中しようとする。
「でも、私的には今日は来てよかったの。」
いきなり吹っ切れたような強い瞳の愛弓と目が合って、キョーコは息をのむ。
「彼の唯一の存在にはなれなくても…彼女っていう立場でいられればそれでもいいっていうのは、やっぱり自分に嘘をついているだけだった。一人の男性を何人もの女性でシェアするなんて、そんなことで幸せになれるはずがない。
でも…私には何もしないまま諦めるなんてできなかったから。
…うん!私はやりきった。やりきったのよ、京子さん。」
愛弓は、おもむろにケーキを掴むと、ガブリとかぶりついた。
「本当は、甘いものなんて苦手なのに、彼に合わせて甘いものが大好きなふりをしたりして。はじめから私のことだけを見てくれないってことはわかってたのに、不毛なのにやめられなかった。」
愛弓はもぐもぐとケーキを頬張りながら、早口でしゃべり続ける。
「でも、もうおしまい!サヨナラだわ!むぐむぐ…。あ、京子さんも、ね?ケーキ、お好きなのでしょ?どうぞ。」
愛弓は、まるで何かと闘って、それを振り切るかのように、むしゃむしゃと食べている。
キョーコもケーキを手にとって、まぐっとかぶりついた。芳しい香りと上品な甘さで、ふぅとため息が出た。きっと、キョーコでは購入することのない御値段なのだろう。
まるで蓮のようなケーキだなあと、キョーコは少し悲しくなる。
(愛弓さん、3番目の彼女やめるんだ…。私はどうしたらいいんだろう。…どうしたいのだろう。)
無事に8個のケーキを平らげた二人は、病院を出たところで別れた。
(私、敦賀さんのマンションに、あまりにも他の彼女さん達の影を感じないからって油断してた。あの時、
((一晩中敦賀さんは綾子さんを…?))
そう思ったら、嫉妬で気が狂いそうだった。でも、でもそれが現実。
辛いけど…。それでも私はまだ、やりきったとは言えない。
私も、このままでは終われない。やりきって、もうやれないってとこまでやってみるの。でないと、絶対に後悔する。
人生最初で最後の、敦賀さんとの一晩を過ごすんでしょ!?思い出作るんでしょ?)
キョーコは、ぐっと拳を握った。
(敦賀さんにちゃんと謝るんだ。疲れて体調が悪すぎたんだって、迷惑をかけたくない一心でマンションを飛び出したんだって、嘘の理由だけどしっかり謝ろう。許してもらえるかわからないけど、やってみよう。)
キョーコは早速蓮にメールを送った。
……あれ?敦賀さんて甘いもの好きだっけ?聞いたことない…と、その時キョーコは思ったが、蓮に向かう覚悟の気持ちから、その疑問はうっかりと忘れ去られた。