「祈りと合掌」
「祈り」とは不思議なものである。「合掌」とは不思議なものである。
それは私たちの日常の意識とは切り離された特別の意識の形を持っているように思える。他の人を寄せ付けず、自らの内なる心の想いの中に深く入って、祈り又は合掌するその姿は、他人から見ても清々しいものだ。
私の印象に深く残る「祈り」の姿がある。ヨーロッパの人里離れた奥深い山中の厳しさで知られるキリスト教一派の修道院に、20年間許可されなかったカメラが初めて入ったドキュメンタリー映画だが、延々と3時間BGMもなく映し出された僧院の内部で、修道士の「祈り」の姿が鮮烈に浮かび上がった。
一人ひとりが礼拝堂における儀式の時を除いてほとんどの時間を狭い個室で過ごし、食事もそこでとる。ひたすら聖書を前にして祭壇の十字架に「祈り」を捧げる。1日のほとんどを孤独の内に過ごし、夜の暗闇の中で何時間も祈り、黙想し続ける姿は何とも神々しい空気の中にあった。
一方「合掌」する姿で印象に残ったものは、鎌倉円覚寺の夏の講習会の時だった。施餓鬼の行事と重なって大勢の参列者が広い講堂に集まっていた。
儀式が始まり、管主と長老が左右から中央の祭壇へ向かう処で行き会い、互いに「合掌低頭」して二人並んで祭壇へ向かうのだが、二人が出会って互いに「合掌低頭」しあうその姿に驚嘆したのである。
二人は参列者の前を各々左右から歩み寄り、中央で出会い深々と合掌低頭しあう、この世のものと思えぬ神聖な姿に驚嘆したのである。
人間の姿がこのような形を取れるものなのか、とその不思議なありさまに心の奥から揺さぶられ、今でもその情景をリアルに思い出すことが出来る。
それはただの合掌低頭の姿ではない。自らの仏が相手の仏に対して低頭合掌したとしか思えなかった。二人の仏と仏はそこで合体して一つになり、祭壇へ進み、祭壇の仏に対して合掌低頭し、完全な仏の空間が現前したのである。
私はこのように感じて、儀式は単なる形式ではなく、儀式には重要で奥深い意味があると認識したのである。
二人が出会い互いに低頭合掌する時間はわずか10秒程度のものであったと思われるが、まるでスローモーションの映像を見ているようであった。その瞬間瞬間が一分の隙もなく、相手に対する(つまり仏に対する)純粋な仏としての合掌以外の何物でもないと思われたその姿は、どのような心で行われたのか、どうしてそんなことが出来るのだろうか、とその後考えさせられることになった。
❷に続く