しかし、「空間瞑想」で使う「純粋」は、心(マインド)の領域ではなくマインドを超えた「意識」の領域を「純粋意識」と名付けて使っています。
これは意識の原初の姿を表現した言葉で、そこから派生した諸々の意識の段階(霊的諸界などと呼ばれたこともある)や現象として顕現した段階(より微細レベルから粗大レベルまで)とは区別されるものです。
「純粋意識」をただ「意識」と名付けている覚者もいますが、私は「肉体意識」「マインド意識」など、肉体や心のレベルの意識状態も「純粋意識」から派生して、より粗大化したものと捉えているので、それらにも意識の字をあてています。
つまり、肉体・心・そして意識の純粋度の高低を捉え、原初の最も純粋な段階を「純粋意識」と呼んでいます。
このことは、瞑想で意識の純粋度合の様々な段階を経験したことによるもので、空間を自覚する「空間意識」を一括りで捉えることで済ますのではなく、その純粋度合を意識することで、より微細な「空間意識」の質に目を向けることが出来ると気づいたからです。
「空間瞑想の核心は空間を観ること」であり、本来「観ること」とは、「観照」のことでそれはマインド意識が介在することなく純粋意識で在るがまゝを観ることです。
それこそ意識の純粋度100%の状態を示すものですが、しかしこの段階は瞑想の最高位のもので安安得られるものではありません。そこへ到達するには熟練と深い集中力が必要です。
「観照」ほど「純粋意識」状態を示すものはないと言っても良いのですがそれでは瞑想意識の過程で方法としてとりあげるには困難です。そこで、これを柔軟に解釈し捉え易いものにしたのが「観ること」です。
❸に続く