イーサンの瞑想ひとりごと 5 | 静子の瞑想日記

静子の瞑想日記

月一度の瞑想会の主催をしています。日々の私の体験や感想など書いていきたいと思います

 瞑想意識の中の『感謝』というものがあるのだろうか。一般に感謝とは、「〇〇さんに〇〇をしてもらったから」「こんな良いことがあって」 と感謝する相手(対象)が存在する。

 

 幼少の時から「この様な時には感謝しなさい」と誰でも教えられて育って来た。感謝が相手が人ではなく、自分が生きていること自体に感謝するというのもある。生命として生かされていることへの感謝だ。

 太陽礼拝などもこの類に入るのであろう。人々の中には感謝することを特に強調する人も多くいるし、宗教者であれば一層熱心だ。

 

 ちょっと考えてみれば、「ありがとう」という言葉は不思議な言葉だ。何かしらしてくれたことに対して「ありがとう」と言うだけで相手は心なごむし、言った自分も心やすらぐ。

言うべきところを言わなければ、その失礼に対して相手は憤慨するだろうし、自分は気分は落ち着かなく後に残す。場合によってはとんでもない展開に成るかも知れないのだ。

 

『あ ・ り  ・が  ・と・  う 』の5文字がそれ程の力を持っている。それなのに世の中にはそのことに鈍感な人がけっこういるのだ。

 

 その人の心の内側をのぞくと、言えない理由の根は結構深いものがあり、意識の偏りのあることに気づく。

 表面的な心の表現ではなくその人の心の奥を映し出すことになる。

 他意の無い子供のような喜びの感謝の「ありがとう」とは異なって何かくもった、とどこおるような、仕方なく発音するそれとは心も意識も大違いだ。

 

 これらの「感謝する心と態度」は心の作用(マインド)の領域のことと思っていた。ある作用(相手)と反作用(感謝する者)という関係の中で起こることであり、そこには必ず、感謝される者と感謝する者と感謝することが存在する。

 

 だがしかし、ある時、私が経験した「感謝」はこの範疇には属さなかった。それは何事も無い日常の時間の中で起こった。突然「感謝」という空間に包まれたのだ。前記したように感謝には対象があり、因果関係の中で生じるが、この時は何の前触れも無く「感謝」として感覚される霧のような空間の中に居ることに気づいたのだ。

 

 しかし気づいた私という自覚はなく、ただ感謝という存在としてそこに在った、という感じだ。何かがあったからその様になったという因果関係のない「ただ、ただ感謝として存在」という感覚(気づき)があるだけだったのである。

 その満ち足りた空間の中でしばらく過ごしたのだが不思議な時間であった。

 

 「感謝するもの、感謝されるもの、感謝すること」が存在しなかったことからして 純粋意識 の中の出来事であったことには相違ないと思うのだが、「感謝」というものがその様な形で気づかされるのは何を意味するのだろうか。

 「感謝」とはマインド(心のはたらき)の範疇のものと思っていたのでこの様な事実の経験は意外であった。

 

 瞑想による「気づき」はしばしばこの様な形で現れるのが面白い。それにしてもこの「感謝」はこれから何処へ行くのだろうか。現れては消える様々な瞑想の「気づき」のひとつとして印象に残る出会いであった。

         2019 , 3