昨日の続きというわけではないのですが、ちょっと思うことがあり、本日もマジメな話をしたいと思います。

 

(いつでも、マジメにやってるつもりなんですけどね。)

 

 

表題にあげた「司法消極主義」

 

 

「消極」なんて言葉が入ってるので、後ろ向きのネガティブな話かと思うかもしれませんが、そうではありません。

 

この司法消極主義は、簡単に言うと裁判所は積極的に違憲審査を行うことはしないと言う論理です。そして戦後の日本においては、少なくとも司法消極主義で司法の運用は行われていたことだけは、特に異論を挟む余地はないでしょう。

 

(僕は日本の司法、つまり裁判所は違憲審査に限らず、積極的に大それた判断をしていないと思いますが・・・)

 

なぜ、積極的に違憲審査をしない方がいいのか?逆に積極的に判断をすることによって、不当な扱いを受けている人を救えるのではないか?

 

・・・などと、最初何も知らない時は思いました。

 

しかし、勉強してみると、やはり司法消極主義の方が良いことも多いのです。とりあえず、代表的な根拠を挙げるとすると・・・

 

1 裁判所が、民主的な国会において作られた法律を違憲判断することにより、廃止することができるとしたら、それはもはや立法機関に他ならなくなる

 

2 (1を受けついで)裁判官は、議員や行政官僚のように政策立案についての能力を磨いているような職業ではない

 

3 仮に高度な政治問題について、その是非を裁判官に任せるとすれば、司法が世論の影響に迎合したり、政治闘争に巻き込まれやすくなる

 

・・・といったところでしょうか。

 

3は特に重要だと思っています。法律や政策決定は、どうしても最終的には民主的な手続きを経て決定されます。その民主的という意味には、どうしても多数派の意向を尊重するという側面が色濃く反映されます。

 

裁判所が世論に迎合したり、政治闘争にまきこまれると、それはもはや多数派の意向を確認するだけの機関に成り下がってしまうでしょう。

 

 

 

話は少し逸れますが、法律論というのは、できるだけ緻密な理論を積み上げていくものであることが重要です。まぁ、そのおかげで法律論が一般の人から馴染みにくいものになっていってしまうのですけど。

 

例えば、民法第1条第3項には「権利の濫用は、これを許さない。」とあります。で、ある当事者達で民事訴訟が起きた際に裁判所から・・・

 

あなたは権利を濫用しているから、あなたの主張は認められない、以上。

 

・・・とだけ言われて納得する人は普通はいないと思います。

 

どういう事情に照らして権利の濫用なのか、具体的に緻密に論証を積み重ねているからこそ、負けた当事者はともかく、世間は裁判所の判断を尊重しようというするのだと思います。

 

これは刑事裁判でも同じです。史上稀に見る凶悪な事件を起こし、極刑が間違いないだろうとする被告人であっても、弁護人をつけ、弁明の機会を与え、証拠収集についても違法なプロセスを排除しているからこそ、裁判所の極刑の判断は重みを増すのです。

 

これが、どうせ極刑になるのだから、早く判断をしろなどという世論に同調していたら、判決の重みはなくなります。

 

 

このように、裁判所というものは、世論の価値観を決して無視するわけではありませんが、それでも世論とはどこかで一線を画して裁判に臨み、緻密な法理論・法解釈を通じて判断を下すべきだと思います。

 

そういう意味では、日本の司法が司法消極主義であることは、決して悪いことではないのだと思います。

 

 

裁判所は民主的な機関とはまた違った観点から、人権を守るために法律的判断を下すからこそ存在意義があるのです。

 

 

(この辺りは、自由と民主主義の概念の違いや、対立と調和についての論点なので深入りはしません。ただ、日本には自由民主党という政党があり、長年政権与党です。自由と民主ってよく考えたら対立しかねない概念なのに、一つに収まって党名になってるのって、ある意味すごいかも。)

 

 

最後に、太平洋戦争後に極東軍事裁判で判事を務めたインド出身のパール判事の言葉を引用して、本日は終わりたいと思います。

 

時が熱狂と偏見をやわらげたあかつきには

理性が虚偽からその仮面をはぎ取ったあかつきには

そのときこそ

正義の女神はその天秤の平衡を保ちながら

過去の賞罰の多くに

そのところを変えることを要求するであろう