マザー・テレサ は、カトリック教会修道女であり、修道会「神の愛の宣教者会」創立者です。そして、カトリック教会で聖人の一人として認定されました。彼女のカルカッタで始まった貧しい人々のための活動は、後に続く修道女たちによって全世界に広められ、まさに世の光となり、地の塩となる歩みを実践された天地が記憶する女性でした。

 

彼女の活動は在世中に高く評価され、1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラト・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、1983年にエリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受けました。1996年にはアメリカ名誉市民に選ばれています(アメリカ名誉市民は彼女を入れて、わずか7人しかいません)。

 

 

マザー・テレサは、1910年8月26日に生まれ、両親はマケドニア地方に住むカトリック教徒で、一家は裕福でしたが父母は信仰心に篤く、貧しい人への施しを積極的に行っていたと言います。

 

彼女は、小さいころから聡明な子で、12歳の時には既に、将来インドで修道女として働きたいという望みを持っており、18歳のとき、故郷のスコピエを離れて、アイルランドロレト修道女会に入りました。そして、1929年から1947年まで彼女は、カルカッタの聖マリア学院地理歴史を教え、1944年には校長に任命されています。

 

上流階級の子女の教育に当たりながらも、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていました。彼女自身の言葉によると1946年の9月、休暇のため避暑地であるダージリンに向かう汽車に乗っていた際に「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたと言います。

 

私は、このような彼女の貧しい人々への変わらない関心と愛情を観るとき、見えない神様を観る思いがします。貧しい人々を労り、養い、救いの手を差し伸べ、勇気と希望を与えて抱擁したい神様のみ意を感じます。そのみ意を感じ取るだけの心のアンテナを立てて生活をしていた彼女だからこそ、このような啓示を心の耳で聴かれたのだと思います。

 

 

そして啓示を受けてから二年後、1948年、ようやく教皇・ピウス12世からの修道院外居住の特別許可を得て、テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入って行ったのです。彼女はインド女性の着る質素なサリーを身にまとい、手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになりました。彼女が行く道は、決して容易な道ではなく、何度も心身共に死線を越えなくては進めない道のりがあったようです。そんな彼女のもとに聖マリア学院時代の教え子たちがボランティアとして集まり始め、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになったと言います。

 

このような助けや支援を得られるのも、彼女の決意が、あらゆる苦痛と誘惑の試練に屈することがなかったからこそです。このような一人の人の義が、多くの人の義の心を呼び起こす呼び水となることを教えてくれています。

 

 

そして、彼女は更に1950年に修道会設立の許可を得ました。これが「神の愛の宣教者会」です。テレサによれば、同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話をしてもらえない人のために働く」ことでした。

 

テレサは修道会のリーダーとして、「マザー」と呼ばれるようになります。この「マザー」の呼び名は、最高の呼称であると思います。誰からも顧みられず、親、兄弟、家族からも捨てられたような立場に立つその人の親に代わる親、兄弟に代わる兄弟、家族に代わる家族として寄り添い、向き合う彼女だからこそ得た呼称であると思うからです。

 

そして、インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院を譲り受けたテレサは「死を待つ人々の家」というホスピスを開設しました。活動の初期の頃、地元住民たちはホスピスに所属している者をキリスト教に改宗させようとしているという疑念を抱いていました。しかし、彼女たちはケアする相手の宗教を尊重する姿勢を貫き、亡くなった者に対しては、その者の宗教で看取っていたと言います。

 

このような姿勢も特筆すべきで、宗教は宗教それ自体が目的ではなく、神の子である「人」にこそ目的があり、神の子が神の子らしく人生を全うできるように、宗教という枠組みを超えて奉仕したこの足跡こそ、すべてのキリスト者はもちろん、宗教人が見倣うべき姿だと思います。

 

このケアする相手の状態や宗派を問わないテレサたちの活動は世界から関心を持たれ、多くの援助が集まりました。1960年代までに「神の愛の宣教者会」の活動は全インドに及ぶようになったと言います。さらに1965年以降、教皇・パウロ6世の許可によってインド国外での活動が可能になりました。インド以外で初めて宣教女が派遣されたのは南米・ベネズエラのココロテ市でした。以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになります。

 

 

テレサの活動は、カトリック教会全体に刺激を与え、「神の愛の宣教者修道士会」「神の愛の宣教者信徒会」などが次々に設立されて行きました。1971年、教皇・パウロ6世は自らが制定した勲章「ヨハネ23世教皇平和賞」最初の受賞者としてテレサを選びました。これを皮切りに多くの賞がテレサに与えられることになるのです。

 

最も有名な賞は、1979年に受けたノーベル平和賞でしょう。テレサは授賞式の際にも特別な正装はせず、普段と同じく白い木綿のサリーと皮製のサンダルという粗末な身なりで出席しました。賞金19万2000ドルは全てカルカッタの貧しい人々のために使われることになったと言います。授賞式の場においては、「私のための晩餐会は不要です。その費用はどうか貧しい人々のためにお使い下さい」とも要望したそうです。そして、賞金を受け取った時、「このお金でいくつのパンが買えますか」と言ったとも伝えられています。

 

インタビューの中で、「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか?」と尋ねられたテレサの答えは、とてもシンプルなものでした。

 

「家に帰って、家族を愛してあげてください。」

 

この世に生を受けて、最も尊い聖業は何かと言えば、それは一人の家族を、神様が自分を愛するように愛することであるわけです。マザー・テレサは、その家族に代わる家族として、最も貧しい一人の人の家族になり、その奉仕を実践されました。同様に最も近くで生活をする隣人としての家族を愛することが、彼女が実践する奉仕に劣らない、皆さんお一人お一人が実践するべき最も尊い奉仕であり、聖業だと語り示してくれたわけですが、この言葉は、大変貴重なメッセージだと思います。

 

 

彼女は、1997年9月5日、世界が見守る中、カルカッタのマザー・ハウスにて87年の生涯を終えます。テレサの葬儀は、1997年9月13日にインド政府によって国葬として荘厳に行われましたが、国葬は、独立の父マハトマ・ガンジー初代ネール首相につづき、マザー・テレサは3人目で、インドの政治指導者や首相以外で国葬されたのは、彼女と2011年月に死去したサティヤ・サイ・ババだけだと言います。彼女がいかに、インドと世界の人々の記憶に刻まれ、主義主張、思想、宗教、人種の差別なく、最下層の人々のために奉仕する人生を生きたか、最も低く奉仕する者が、最も高く評価されることを生きて証明する生涯ともなりました。

 

「あなたも望まれて生まれて来たのですよ。」

 

死の間際に、このようにマザー・テレサの愛に包まれた貧しき人は、誰よりも富を得た人のように生涯を全うすることができたのではないかと思います。今日は、その貧しき人の友となり、家族として寄り添い、最も富んだ人と比べても見劣りしない奉仕と愛で看取った聖人、マザー・テレサの生涯を記事にしてみました。(谷口禎和)