今年も元旦にSNSトレンド入りした”ベルトラン賀正”。その元となったベルトラン・ガショー | 北海熊の独り言

今年も元旦にSNSトレンド入りした”ベルトラン賀正”。その元となったベルトラン・ガショー

毎年お正月に流行する”ベルトラン賀正”。その元となったベルトラン・ガショーというF1ドライバーについて紹介する。

 

ご存知ない方のためにお知らせすると、ガショーというF1ドライバーがかつて存在しており、当時からお正月を迎えるたびに、”ベルトラン賀正”という恒例ギャグが日本中で使われてきた。

 

 ガショーは1989年にオニクスからF1デビュー。その後リアル、コローニを経て、1991年にはジョーダンのレギュラーシートを勝ち取った。ジョーダンは、今ではアストンマーティンと名を変え、F1参戦を継続しているチームであるが、1991年はその1年目のシーズンである。

 

 

1年目ながら、ジョーダンは大活躍。ガショーも第5戦カナダGPで5位初入賞を果たすと、イギリスGP、ドイツGPと2戦連続で6位入賞。ハンガリーGPではファステストラップを記録してみせた。

 

 ただ1990年の12月に、イギリスで交通トラブルに巻き込まれた際に、相手車両の運転手に催涙スプレーを噴霧してしまった。この裁判で有罪となり、ハンガリーGP後に収監されてしまうこととなった。

 

これによりジョーダンのシートが空き、代役としてF1デビューを果たしたのが、後に絶対的王者としてF1界に君臨することになるミハエル・シューマッハだった。シューマッハはデビュー戦ベルギーGPでいきなり予選7番手。この活躍が元でガショーはジョーダンのシートを失うこととなり、2ヵ月の収監の後釈放されたものの、F1に出走することはできなかった。ただ、同年の最終戦には、負傷したエリック・ベルナールの後任としてラルースのマシンを走らせた。

 

 

1992年には、ラルースのレギュラーシートを確保。チームメイトはルーキーの片山右京であった。この年のラルースのマシンは、ランボルギーニエンジンの強力な側面もあったが、マシンの出来はイマイチであった。そんな中でもガショーは、モナコGPで6位入賞を手にした。

 

 その後1993年は1年間CARTにスポット参戦。1994年にはパシフィックからF1復帰を果たしたが、高い戦闘力を手にすることはできず、1995年限りでF1キャリアに終止符を打った。

 

 

 なおガショーはF1と並行して耐久レースにも参戦。1991年にはジョニー・ハーバート、ヴォルカー・バイドラーと組んでマツダ787Bを走らせ、勝利を手にした。この勝利こそ、日本車が初めてル・マン24時間レースを制した歴史的瞬間だった。

 

 

その後ガショーは、1992年にはマツダ、1994年と1995年にはホンダNSX、1997年にはポルシェ911 GT1を駆ってル・マンに参戦している。

 

 レーシングドライバーを引退した後、ガショーはビジネスマンへと華麗な転身を遂げ、エナジードリンク”Hype”のCEOに就任。現在もその役職を務めているという。しかもこのHypeは、自身がかつて所属していたジョーダンの後継チームであるフォースインディアのスポンサーを務めるなどした。