ライター&絵てがみ作家のhokaです飛び出すハート

 

私は30代後半~40代の10年以上のあいだ、不育・不妊治療と向き合ってきました。

 

治療習終結についてはなかなか決断できず、延長に延長を重ねて……

「無期限の活動休止」としてクリニックを卒業したのが、今から3年前のことでした。

ちょうどその頃、NPO法人Fineの「不妊ピア・カウンセラー」の認定を受け、

ピア(当事者、仲間)としてのカウンセリングを現在も続けています。

 

タイトルの「不育症☆奮闘記」は、自身のホームページと同名で下矢印下矢印

 

 

不育症に苦しんでいた頃に描いた絵てがみと共に、手づくり感満載のサイトではあるのですがアセアセ

 

ながらく放置していたこのブログを再開し、これから発信していきたいなと思ったのは、このサイトのイメージ……

過去の私のように不育症に苦しんでいるかたへのメッセージや、

思いを吐き出しながら綴った絵てがみや今の気持ちなど。

 

第1回目となる今回は、2008年春頃の体験を。。

原因不明の初期流産が3回続き、地元の大学病院の門をたたいたときのお話です。

虹虹虹

 

 

 はじめて入院を経験したのは、2008年4月、36歳と半年のときでした。

3度目の妊娠もまた初期流産の兆候があり、いちど「不育症」の検査をしましょうと

地元のレディースクリニックから大学病院を紹介されました。

 

 不妊症は知っているけれど、不育症って?

 

 15年前は、まだまだ耳慣れない言葉でした。

 

 妊娠8週での不安いっぱいの初診で告げられたのは、入院。

2泊3日で掻把(子宮内容除去術)、それから赤ちゃんの染色体検査を行います、

とのことでした。

 

 あぁ、またか……。

当時、婦人科の待合室には厚生労働省による不育症の啓発ポスターが貼られていて。

 

「流産をくり返しても、80%の人は挙児にいたる」

 

という内容だったと記憶しています。

 

同様に、不育担当の医師も「大丈夫ですよ」とのこと。

私も主人も、そして入院に付き添ってくれた実家の母も

 

「ここまで来たんだから大丈夫」

 

と思っていました。

哀しい経験が続いたけれども、次こそは、次こそは!と。

けれども、そこからが“始まり”でした。

 

 大学病院での不育症検査の結果は、シロ。

「不育症の検査はキリがない。ある程度調べたら、次に進みます」と先生。

次=不妊治療のことでした。

 

なんとなく、モヤモヤした気持ちが残ったのは、

不育症の原因が見つかり、それを治療してもらえると認識していたからです。

結局、なんとかお願いして保険適用外の血液検査も実施してもらいましたが、

そちらも問題ナシという結論でした。

 

そのときの私は「先生、私もう辛い思いしたくないんです」と、

まさに“必死のパッチ”だったと思います。

 

先生は若干根負けされた様子でしたが、

私たち患者側の思いは

 

「もう二度と哀しい思いをしたくない」

 

ただそれだけなのです。

 

今日の絵てがみ★入院の朝、大学病院近くの土手につくしが生えていて…

その光景を思い出しながら描いた一枚ですキラキラ

 

≪つづく≫

虹虹虹

 

最後までお読みいただきありがとうございましたハート

 

次回の【不育症☆奮闘記!】は…

②長いながいタイミング療法 ~早く妊娠を!(37歳のころ)を綴ります鉛筆