グダグダと政治が進んでおります。
どう落ち着くかは問題ですが、大きな変化はなさそうですねえ。
国会議員の定数削減も具体化せず。
オバマ大統領には会ってもらえず。
維新の会は張り子ながらも鼻息は荒く。
相撲も野球もサッカーも今ひとつ燃え上がらず。
それに比べ、私個人の生活は激動ですけれどね。
身辺整理の必要まで出てきて、二十五年ほど前に買っていた古雑誌とか奥から出てきたゴミを
一掃処分しました。
結構、何年間も買い続けてた雑誌があるものでして。
オークションに出せばマニアが買ってくれたかもしれませんが、全部資源ゴミへ。
例えば。
GUN
歴史群像
SFマガジン
歴史読本
ムー
などなど。
この中で驚いたのが「ムー」ですね。
今のブームと二十年以上前のブームとそんなに変わっていないのですよ。
パワーースポットもあれば、占い師もいれば、南極の氷の下の世界もある。
人類、経済や科学技術が進歩しても、本質的中身はあまり変わっていないということでしょうか。
そんな中で、特に、表題。
オウム真理教。
1987年から1988年にかけて、「ムー」に広告攻勢をかけています。
オウム裁判等で目にした、今となっては懐かしい顔ぶれが、必死に修行しています。
麻原彰晃も上祐さんも結跏趺坐のまま空を飛んでいますね。
87年12月26日から88年1月5日に神奈川県丹沢で行われた(らしい)集中セミナーの募集
にいたっては、文言も凄い。
「悟るか、狂うか 狂気の10日間」
「必!! 遺書」
なかなかです。
この募集時点で「6人の成就者を世に放った」とありますが、上祐さんをはじめとした初期信者の
あの方々のことでしょうね。
参加費用がまた凄い。
「会員20万 預流向30万 非会員40万 (宿泊費・食事代込)」
100名限定で枠が埋まったら数千万円ですが、実際は何人集まったのでしょうか。
この広告で集まった人の中から地下鉄サリン事件などの協力者が出たのでしょうか。
今となっては、虚しいだけです。
この時の広告は、一面が麻原彰晃が雪原で上半身裸になって印を組んでいる(?)写真です。
ちょっとお肉がついていますね。
これより前の、結跏趺坐で空を飛んでいるときは、もっとぜい肉のないしまった身体をしていまし
たが、栄養がよくなったのでしょうか。
私の知り合いでヨガをやっている人は全員が痩せています。
それゆえに、お肉の余っているヨガのインストラクターは信用できない私です。
麻原彰晃もインド仏教の流れを取り込んでいるはずですから、ヨガを修行の一つとしていたはずで
すから、太ってちゃ偽物丸出しです。
逆に言うと、痩せていた初期は真面目に修行をしていたのかもしれないですが。
どこかで道を踏み間違えたのかも。
宗教には大きく分けると、救済渇望と超人願望とに別れます。
絶望している自分が助かりたい、困っている他者を助けたい、というのが救済渇望。
今の自分を超えたい、真理を目指してワンランク上のステージに到達したい、というのが超人願望。
マズイ袋小路に入りやすいのが後者です。
「俺は他人とは違う」というアイデンティティが「俺は他人より優れている」という差別意識に変
わってしまうからです。
しかも、優れているはずの自分がそれにふさわしい扱いを世間から受けない。
凡人の上にいるはずの自分が報われない事実を、他罰的反動で世の中のシステムのせいにし、世間
に対して敵意を燃やすからです。
このマズイ袋小路にオウム真理教はどこかで入り込んでしまったのでしょう。
世間を否定し、自分たちコミュニティーを正当化し、現実から逃避した場所での優越性を信じる。
そしてその行先にあるのは、現実の社会の否定ですから。
「優れている自分たちが凡人を導いてやらなくてはいけない」などという発想そのものが現実から
逃避しているということに気づかない。
気づいても否定し、自分を正当化する。
オウム真理教がなくなっても、日本には数え切れない宗教団体があります。
その中でおなじように「マズイ袋小路」に入り込んでいる団体はないでしょうか。
個人的に、某巨大宗教団体の内部にもこの「マズイ袋小路」的思考を持った人を知っていますし、
数人の小さなコミュニティーで「マズイ袋小路」に入ってしまった例も知っています。
これは宗教に限らずいろいろな場面で人間が陥りやすい「袋小路」です。
どの「袋小路」も行き着く先は「破滅」という点で同じです。
現在、某調査のためにユダヤ教、キリスト教、イスラム教を発生から分岐に至る文献上の客観的観
測を行なっています。
なかなか興味深いですね。
一神教と多神教の接点が見えてきます。
根は同じですね。
私個人はいかなる宗教も否定はしませんが、日本国内で行われる活動ならば日本国憲法に従ってい
ただきたいと思います。
日本国憲法は信教の自由に制限を加えています。
信教の自由を保障しているとか言っている人がいますが、保障すると同時に制限していることの方
が重要だと思いますけれど。
昨今、様々な宗教について新しい資料が発見されることで面白い研究が進んでいます。
マリア様の処女懐妊を合理的に説明する文書もありますね。
まあ、ここで書くと怒られる部分もあるでしょうから詳細は別の機会に。
もともとマリア様は人間だから、と合理的解釈を取り入れているキリスト教の一派もいますけれど。
さてさて、暗殺される前にこの辺でやめておきましょう。

どう落ち着くかは問題ですが、大きな変化はなさそうですねえ。
国会議員の定数削減も具体化せず。
オバマ大統領には会ってもらえず。
維新の会は張り子ながらも鼻息は荒く。
相撲も野球もサッカーも今ひとつ燃え上がらず。
それに比べ、私個人の生活は激動ですけれどね。
身辺整理の必要まで出てきて、二十五年ほど前に買っていた古雑誌とか奥から出てきたゴミを
一掃処分しました。
結構、何年間も買い続けてた雑誌があるものでして。
オークションに出せばマニアが買ってくれたかもしれませんが、全部資源ゴミへ。
例えば。
GUN
歴史群像
SFマガジン
歴史読本
ムー
などなど。
この中で驚いたのが「ムー」ですね。
今のブームと二十年以上前のブームとそんなに変わっていないのですよ。
パワーースポットもあれば、占い師もいれば、南極の氷の下の世界もある。
人類、経済や科学技術が進歩しても、本質的中身はあまり変わっていないということでしょうか。
そんな中で、特に、表題。
オウム真理教。
1987年から1988年にかけて、「ムー」に広告攻勢をかけています。
オウム裁判等で目にした、今となっては懐かしい顔ぶれが、必死に修行しています。
麻原彰晃も上祐さんも結跏趺坐のまま空を飛んでいますね。
87年12月26日から88年1月5日に神奈川県丹沢で行われた(らしい)集中セミナーの募集
にいたっては、文言も凄い。
「悟るか、狂うか 狂気の10日間」
「必!! 遺書」
なかなかです。
この募集時点で「6人の成就者を世に放った」とありますが、上祐さんをはじめとした初期信者の
あの方々のことでしょうね。
参加費用がまた凄い。
「会員20万 預流向30万 非会員40万 (宿泊費・食事代込)」
100名限定で枠が埋まったら数千万円ですが、実際は何人集まったのでしょうか。
この広告で集まった人の中から地下鉄サリン事件などの協力者が出たのでしょうか。
今となっては、虚しいだけです。
この時の広告は、一面が麻原彰晃が雪原で上半身裸になって印を組んでいる(?)写真です。
ちょっとお肉がついていますね。
これより前の、結跏趺坐で空を飛んでいるときは、もっとぜい肉のないしまった身体をしていまし
たが、栄養がよくなったのでしょうか。
私の知り合いでヨガをやっている人は全員が痩せています。
それゆえに、お肉の余っているヨガのインストラクターは信用できない私です。
麻原彰晃もインド仏教の流れを取り込んでいるはずですから、ヨガを修行の一つとしていたはずで
すから、太ってちゃ偽物丸出しです。
逆に言うと、痩せていた初期は真面目に修行をしていたのかもしれないですが。
どこかで道を踏み間違えたのかも。
宗教には大きく分けると、救済渇望と超人願望とに別れます。
絶望している自分が助かりたい、困っている他者を助けたい、というのが救済渇望。
今の自分を超えたい、真理を目指してワンランク上のステージに到達したい、というのが超人願望。
マズイ袋小路に入りやすいのが後者です。
「俺は他人とは違う」というアイデンティティが「俺は他人より優れている」という差別意識に変
わってしまうからです。
しかも、優れているはずの自分がそれにふさわしい扱いを世間から受けない。
凡人の上にいるはずの自分が報われない事実を、他罰的反動で世の中のシステムのせいにし、世間
に対して敵意を燃やすからです。
このマズイ袋小路にオウム真理教はどこかで入り込んでしまったのでしょう。
世間を否定し、自分たちコミュニティーを正当化し、現実から逃避した場所での優越性を信じる。
そしてその行先にあるのは、現実の社会の否定ですから。
「優れている自分たちが凡人を導いてやらなくてはいけない」などという発想そのものが現実から
逃避しているということに気づかない。
気づいても否定し、自分を正当化する。
オウム真理教がなくなっても、日本には数え切れない宗教団体があります。
その中でおなじように「マズイ袋小路」に入り込んでいる団体はないでしょうか。
個人的に、某巨大宗教団体の内部にもこの「マズイ袋小路」的思考を持った人を知っていますし、
数人の小さなコミュニティーで「マズイ袋小路」に入ってしまった例も知っています。
これは宗教に限らずいろいろな場面で人間が陥りやすい「袋小路」です。
どの「袋小路」も行き着く先は「破滅」という点で同じです。
現在、某調査のためにユダヤ教、キリスト教、イスラム教を発生から分岐に至る文献上の客観的観
測を行なっています。
なかなか興味深いですね。
一神教と多神教の接点が見えてきます。
根は同じですね。
私個人はいかなる宗教も否定はしませんが、日本国内で行われる活動ならば日本国憲法に従ってい
ただきたいと思います。
日本国憲法は信教の自由に制限を加えています。
信教の自由を保障しているとか言っている人がいますが、保障すると同時に制限していることの方
が重要だと思いますけれど。
昨今、様々な宗教について新しい資料が発見されることで面白い研究が進んでいます。
マリア様の処女懐妊を合理的に説明する文書もありますね。
まあ、ここで書くと怒られる部分もあるでしょうから詳細は別の機会に。
もともとマリア様は人間だから、と合理的解釈を取り入れているキリスト教の一派もいますけれど。
さてさて、暗殺される前にこの辺でやめておきましょう。
