隙間風がどこからか忍び込んできて、わたしは部屋を見回した。
六畳一間の和室だ。啓司の住んでいるこのボロアパートは建て付けが悪く、押し入れとトイレのドアが閉まらない。よくこんなところに長いこと住めるなあ、と立ち寄るたびに思う。押し入れはまだしも、トイレのドアが開きっ放しなのははっきり言って最悪だ。
「もうちょっとまっててね、さなえちゃん」
啓司の平べったい声が大袈裟に部屋に響く。振り向くと、啓司の真っ黒な二つの目がわたしを見ていた。大きく二回頷く。それを確認すると啓司は満足そうに口元を緩め、視線を机の上に移した。
そっと近づいて、華奢な背中越しに手元を覗き込む。万年筆が葉書を引っ掻くカリカリという音が啓司の周りに充満している。東京都葛飾区、そのあとの住所が筆先から紡がれてゆく。
「きれいな字」
わたしの呟きは啓司には届かない。ひたすらに文字を生み出し、白い葉書の上に敷き詰めている。
啓司は宛名書きの仕事をしている。週に一回会社から送られてくる分厚い封筒の中に、啓司に宛名を書かれたがっている無垢な封筒や葉書が大量に入っている。啓司は万年筆を厳かに持ち、それらに命を吹き込んで送り出すのだ。
さらさらと流れる小川のように、あるいはくるくると舞う新体操のリボンのように。啓司の書く文字はしなやかに生きている。成り立ちを一目で想像させるような、物語のある文字を啓司は書く。文字から音が聞こえてくるほど、今にも歌い出しそうな立体感がある。
驚かせないようにそっと背中から離れ、わたしは畳の上に寝転がった。かびたようないぐさの匂いが鼻を掠めた。
「おわったよ、さなえちゃん」
いつの間にか、眠っていたらしい。目を開けると啓司がわたしを見下ろしていた。長い襟足が首にまとわりついている。
「おつかれ」
ゆっくり発音し、起き上がった。トイレに行きたかったけれど、ここでは絶対したくない。
ポストに葉書をまとめて投函しに行くついでに、コンビニに寄って用を足した。もう日が暮れていた。迫り来る夜を縫うように、わたしと啓司はぶらぶらと歩いた。
暗がりの中ではわたしたちは無口になる。啓司の隣は沈黙も優しい。街灯に季節外れの蛾が一匹だけ張りついていた。
「ねえ、啓司」
語りかけても返事などないとわかっているのに、わたしはときどき無性に啓司の名を呼びたくなるときがある。背の高い啓司にはわたしの口元は覗き込まないと見えない。
「啓司にとって、わたしって何」
返事がないのをいいことに、わたしは夜の散歩の途中で好き放題問いかける。
「都合のいい女、だったりして」
「本当ならサイテーだね」
「わたしの好きなところを三つあげてみて」
「啓司はさ、わたしでよかったの」
沈黙の色が濃くなった気がした。わたしが醸し出しているのだ。
生まれつきではないから、啓司の耳の奥にはまだ声の感覚が残っているらしい。
聴こえないことが、あんなにもしなやかで美しい文字を書けることの代償であるとさえ思ってしまう。聴力が何かの拍子に指先に移り、筆を通し文字として揺れ動いているではないか、と。
文字を書くことが、啓司にとって聴こえないことの代替ではなく、アドバンテージであってほしいと願う。
「さなえちゃん」
ふいに啓司が空を指差した。
「きれいだね」
人差し指の先には両端の尖った三日月が浮かんでいた。
「さなえちゃんのこえはきこえないけど、さなえちゃんとあるくよるがすきだよ」
冴え冴えと光る三日月は、啓司の書く文字に似ていた。
「わたしは啓司が好きだよ」
聞こえないのをいいことに、わたしは隣で夜空を見上げる啓司を見上げて言った。三日月だけが耳を澄まして、わたしの声を吸い込んだ気がした。