8月の第1週から2週目にかけたこの時期、日本は「平和祈念週間」と言いだしても良さそうな期間だ。

8月6日は広島の、9日は長崎の、それぞれ原爆記念日で、15日は終戦記念日だ。

この時期になると、テレビをはじめとしたマスコミは戦争関連の特集を多く組み、平和の尊さ、戦争の悲惨さをひたすら訴える。

そこではしばしばこんな言い分を耳にする。

「世界で唯一戦争放棄をうたった平和憲法を持つ日本」「唯一の核被曝国、日本」「そんな日本だからこそ、平和を世界に訴えていかなければならない」

たしかに、日本国憲法には、戦争を放棄するとの一文がある。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」


こんな条文を掲げ、「平和を」「平和を」と穏やかに、時に悲しげに訴える人を見ていると、なるほど、日本人というのはおおむね平和を希求し、暴力を嫌い、対話を愛している雰囲気でおおわれているように見える。

しかし、実際のところ、そのカバーを剥いでみれば、それが全く違うことが分かる。

なにせ、俺はそのカバーの内側でずっと暮らしてきたのだ。

その俺の経験と、知識から言って、普段は避けている断言をあえてすると、日本人は話し合いが大嫌いである。


「話し合いなどまっぴらごめん。そんなこといちいちやってられない。そんなこと、頭でっかちの、理屈ばかりで感情のない嫌味な人間のやることで、まともな人間のやることではない」

と思っている。

(続く)

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