先日ちょこっと書きましたが、
この間、取り壊される直前のお蔵の写真が見つかりました。
土方家が玉川浅川の氾濫のため現在の場所に移ったのは、弘化3年。歳三さん12歳の時。
生家は程なく移築されましたが、土蔵が何年の建築かは不明。
ただ、祖父母から、
こちらに移ってから立て替えられたという話は聞いたことがないし、
小作さんが毎年お米を収めに来るのを貯蔵しておく穀物倉だったので、
生活必需品であり、比較的母屋が移って早い段階で建てられたものだと推察できます。
今、改めて眺めると、かなり年季が入った壁。母屋の萱の屋根と同様にトタンで覆って耐久性を持たせていましたが、土壁が崩れかかってもいます。
土方家の蔵は米蔵だったので、通常よりも大きめでした。
この土蔵は、平成に入ってからの区画整理の影響で、土地の高さがかなり変わることになり、土方家の敷地内で土蔵を移動して元の場所に土盛りして戻すだけのスペースがとれず、取り壊されました。
写真の日付から、1992年3月に撮影されたと分かります。
内部が整理されているから、取り壊しの直前かな。
伯母の話では、昭和初め頃は、
この入り口の軒の下で、刈り取った石田散薬の原料・牛革草を干していたそうです。
一年分の薬を精製するのは、農閑期に入ってから。
うかうかすると年の暮れももうすぐ…というような時期だったとか。
写真では大棚が軒下に運ばれていますが、これはもともと祖父母の寝室
(神棚の奥の部屋)にあった棚。
生家を取り壊すときにこちらへ運んだのですが、
棚の後ろから驚くべきものが出てきて…。その時のこと、私もう一生忘れられないっていうヴィジュアルショックを受けました
これはね、ちょっとここに書くようなことでもなく…
気になる方は私に直接聞いてみて下さい…
とにかく、なつかしいなあ…
これこれ、この扉が重いのなんのって。
二重構造で、中は木の引き戸になっています。
小さい頃は、いたずらをしたり、お仕置きされるようなときは
決まってこのお蔵に入れられるっていうことになっていました…。
本当に、本当に、怖くて暗くてひんや~~~~りした空気で…
子どもの力じゃ戸は開かないし…。
「もう、しませ~~~ん」って速攻で思いましたね。
(でも結局孫大好きな祖父が、すぐに助けに来てくれちゃう…
というパターンが多かったです。)
究極のお仕置きでした
歳三さんも同じだったかな?
いとこのお兄さんで強者がいて、
「おれはネズミと友達になってやる!」って
シーチキン(だったかな?)の缶詰持参で篭城したっていう記録がありますが…
(それでも3時間くらいかな?)
現代っ子だったら、トラウマになってしまうような…
強烈な空間でした…
これは、2階に上がる階段。
も、この階段が登るときはいいけれど、下りるときはほんと~~~うに怖い。
(転んで落ちそうで…)
京都など、古い建築だと地下に下りていく階段などこんな感じですが…
上のここには何がありますのプラカードは、
なんと小学生の私が父に頼まれ、
ボール紙に水色のポスターカラーで書いた力作
なっつかしー
さて、歳三さんの遺品類は2階に置かれていましたので、祖父や父はかつて歳三遺品を公開するときには、木箱をかかえてこの階段を下りたんですよね。
白い障子戸が置かれている辺りに古い本などがまとめてありました。
私が小学生の頃、テレビを見ながら何気なく
「里見八犬伝を読んでみたいなー。」というと、
(当時角川映画で原田知世の里見八犬伝が宣伝されていたのです)
祖母が、
「ああ、古い本はね。全部お蔵にあるんだわ。」って教えてくれたのを覚えています。
そのときは、「あの古い物ばっかりのお蔵に文庫本なんて有るのかな?」と思ってそのままでしたが、今にして思えば、祖母は「きっと古い本のところを探すと滝沢馬琴の当時の本があるよ~。」っていう意味だったのかなと…。小学生に江戸の筆写本はちんぷんかんぷんだと思うのだけれど…
でも、それくらい祖父母の代にとってお蔵にあるものは、本でも農具でも御道具類でも「古いもの、歴史的なもの」ではなくて、「生活に密接した」身近な存在だったんだな…と今は分かります。
とりとめないですが…。
歳三さんも閉じ込められたかも知れない…(数々のいたずら伝説がありますから…)
土方家のお蔵のお話でした…。
クリックして応援して下さればうれしいです。