場所も時代もひとがらも違う2人の人物が、偶々似たような場面に臨んだときのお話。
1人目の主人公は蕭何という。
中国秦末・漢初(紀元前200年頃)の人。
沛という県の官吏だったが、同郷に劉邦・後の漢の高祖が居たことで、
彼の一生も大きく変わる。
劉邦が秦打倒の兵を挙げると、彼はその補佐官となり、数次の戦を経て、遂に秦の都・咸陽に至る。
そのときのこと――
「諸将皆争いて金帛・財物の府に走り、之を分く。
何、独り先ず入りて、秦の丞相・御史の律令・図書の蔵を収め、之く(ゆく)。」
(諸将は皆争って財貨の蔵に走り、これを分配した。
蕭何は独りで真っ先に都城に入ると、秦の内閣・裁判所の法令・統計の書庫を接収し、去った。)
――『史記』蕭相国世家
2人目の主人公は、江藤新平といい、幕末佐賀藩の人。
と、ここまで書いて、司馬遼太郎『歳月』を開くと、そこにあらかた書きたいようなことが書いてあった。
何が書いてあるかは、該書を読んでみてほしい。
蕭何は晩年、多くの漢の功臣がそうであったように、高祖劉邦から疑われた。
彼は、わざと財貨を貪るような風をみせ、韜晦し、難を逃れた。
江藤は明治6年の政変で大久保に敗れ、翌年佐賀の乱を起こして鎮圧され、梟首される。
2人はひとつの政権が滅びるに臨み、同じふるまいをした。
未来の民政の基(もとい)は、亡国の文書蔵に眠る法令であり、各国各種の統計であると、おそらく信じ、
周囲に構わずそれを収めた。
そして、それら文書を基に蕭何は関中(現在の中国陝西省)を治め、
項羽と戦う劉邦に絶え間なく兵と食糧を送り続け、
江藤はフランス風の自由主義的法治体制を目指し、急進的な改革を続けた。
司馬氏の言う通り、後世の江藤の方が、自らを蕭何に擬したのだろう。
政治家というには、およそ調整感覚のない、錐のような行動力をもった、このラディカルな理想主義者は、
しかし、蕭何のようには終わりを全うできなかった。
ただ、その生涯の光彩は、後世に自らを江藤に擬せんとする者を生むような輝きを放っている。