※この記事は、筆者の頭の中でぐるぐるしている考え事を綴るものです。



医療看護と保育教育、うまく連携し合えればどちらの業界にとっても良いと思うんです。

小児科には保育とか教育の技術が必要だし、保育教育の現場に医療従事者が関わることも大きな意義があると思うんです。怪我や病気への対応だけでなく、性教育とか倫理観とか教えられますよね。

あと、対象者をアセスメントして介入するとか、学問として目指すものとか、似てるなぁと思ったんです。

学びが深いというか、人間の本質的な部分をケアしますし。

自分の能力活かせるなと思ったんですよ。



でも何か違うんです。放課後児童支援員補助として働いて数年間、ずっと引っ掛かっていました。

それが何か、最近ようやくわかったのです。

保育はとても曖昧なものだということです。

医療は患者側に病気を治したいなどという明確な目的があります。治療目的に対し、治療計画、看護計画を立て、アセスメントし介入します。

保育って保護者に、子どもを保育園・幼稚園に預けることでこんな子に育ってほしいという目的は芽生えにくいですよね。お友達と仲良くできたらいいなぁとかくらいならあるでしょうけど。筆者も子どもを預けていた時、あまり考えたこともありませんでした。

個別支援計画も、こうなったらいいみたいなゴールを目指して立てるものでもないですし。長期目標とか短期目標とかは立てますが、あくまで目標というのか何というのか…


また、医療では意思の診断に基づいて患者への告知を行います。

でも保育では、何を保護者に伝えるのでもオブラートに何重にも包んだり、悪いことは言わなかったり、真意は伝えなかったりします。

発達に関することも、診断は医師しか出来ませんから、支援員がズバッと指摘しないというのはわかるのですが、そこへつなげること自体が困難で、必ず介入方法に行き詰まるのです。



そして、医療現場にいた時も困った人はいたわけです。人としておかしいと思えるような人もいました。

ただ医療現場では、急性期なら特に、退院までの辛抱だと何とか乗り切るわけです。

端的に言えば、医療の先にあるのは生(QOL向上含む)か死ですよね。

保育は違うんですよ。子ども達の数年後、十数年後、大人になるまでをも想像しながら何年もかけて関わるのです。

保育の先にあるのは、どう生きるかという生き方かなと思うんです。

適切な保育をしなければ、何年かけても出来ないことが出来ないままなんてこともありますし、適切な保育を支援員がどんなに頑張っても、その特性上身に付かないこともあります。

筆者の放課後児童クラブのように、発達支援につなげられない組織の問題、親の保育力の低さ、子どもへの理解・関心の無さで、結局本人や周りの困り感に目をつむらざるを得ず、その後学年だけは上がって学童を去っていきます。

支援員は、愛情不足、発達凸凹の放置、放任、過保護などが子どもの成長にどんな影響を及ぼすか知っていますし、苦労するかもしれない未来まで見通していますから、本当に虚しい気持ちでいっぱいになります。なす術が無くなるといった感覚になるのです。

それでも子ども達に生きづらい未来になんて進んでほしくなくて、諦めたくなくて、頑張りたいんです。

親がちゃんと子どもに向き合わないなら、6年生まで放課後児童クラブにいてもらって、我々がマナーやルール、道徳・倫理観、身に付けさせてあげるからねと思ったこともありました。

でもそんなこと簡単なわけがないので、大きなため息と共に空を見上げる毎日なんです。