昨日投稿の続きとして、特にまだ、キリスト信者でない方へお話ししたいと思います。
昨日は、信じるか否かは、結果として天国か地獄かという恐るべき相違についてお話しました。イエスははっきりと「私が道であり真理であり命である。私を通してでなければだれひとり父のみもとにくることはできません」とおっしゃる。天国に至るその他の道は全くない、本当の神だからこそ言える、排他的な御言葉です。
しかし今日お話ししたいのは、信じなければ地獄に行くから恐ろしいので信じるべきだ、ということではありません。
聖書を読み始めてから、すぐに自問自答せざるをえない課題が突きつけられます。それは、イエスご本人が、自らを神の子、さらには神であると、はっきりとおっしゃていることです。イエスが、信じがたい素晴らしいお方、多くの癒しを為すお方、愛あるお方というのはすぐにわかり、実際そうなのですが、単に彼がかつてない偉人として、つまり人として見るのでは、聖書の本質からかけ離れます。
ポイントは、自らを神と称しているイエスを私は、どう判断するかが迫られてくる。「神なのか、神だと思い込んでいる狂人か」という選択肢になるわけです。
わたしは、最終的に「イエスを神と認めざるをえない。イエスに完全にギブアップ。私が間違っていました。神と信じます」となった。そのこころの経緯を本の中で、詳しく書いています。
神という存在を信じていなかった私にとって「ああ、本当に神はいるんだ」と知った時の感覚は、人生最高の瞬間といえます。
それと未信者の皆さんに、ぜひ伝えたいことがあります。
最大の幸せは、そのイエス様が「いつもともにいる」と約束してくださっていることです。いつでもどこでも、いつまでもです。さらに、信じた瞬間に「聖霊様が私のなかに住まわれる」ということです。皆さんは、三位一体の神というキリスト教の教理を聞いたことがあると思います。つまり、神は父なる神、子なるイエスキリスト、聖霊という三つの位格をもち、かつ一体であるということ。そのイエス様が、いつもともにおられ、そして聖霊様が、内住される。信じがたいことが実現します。信者でもすぐには信じがたいことでありますが、聖書にそう書かれており、私はそれを実感するようになっています。神はともにおられ、私の中に住まわれていることほど、力強く、平安なことはありません。その神が私をこの地において成長させてくださり、天国へ導いてくださる。
それこそが、神からの良い知らせ、つまり福音なのです。そのよい知らせを私だけにとどめておくことはできません。ですから、活動を始め、本を書き、そして教会を始めたわけです。また、これらのことをすべて実現してくださったのは、神だと知っています。日本人の思いや社会を充分経験させ、私を56歳で信者にしたのも、神のご計画だったことも知っています。
創造主は、私たちを造られた方なので、人を熟知されています。神と信じるのに、ハードルはありません。子供でも、あるいは、字が読めなくても関係ありません。それぞれの状況に応じて、神は対応し、神を知ります。さすが神です。またキリスト教は、「科学的でない。弱者が信じるもの」と思っている方がいますが、はたして、信者であったパスカル、ニュートン、あるいは深層心理の巨人ユングは、非科学的、弱者でしょうか。彼らのような天才たちも、神の前には謙虚にひれ伏しました。
その神が、「わたしを知りなさい」と嘆願されています。それは、神は、あなたを、とてつもなく愛されてるからです。
教会では、聖書に忠実に、わかりやすくお話ししようと心がけます。

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