今日のメッセージは、ダニエル書3章から「もしそうでなくても・・・」でした。

バビロン捕囚にあった、青年の信仰に学び、キリスト後の私たちの信仰を検証します。何があっても神にゆだねる、神の御心に従う信仰があるだろうか。

https://www.youtube.com/watch?v=TS9ludj_u9g&t=8s

 

ネブカデネザル王が、私が立てた金の像を拝まないなら、シャデラク他2名を、火の燃える炉の中に投げ込むという言明に対する回答。

ダニエル3:16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。

3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。

3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

 

彼らは、こういう展開で考える。

神は、すべてを支配され、すべてが可能な方と信じている。

私達は、神を恐れ信じ、仕えているものであり、今、私たちが、殺される理由はない。

従って、私たちを救ってくださると確信している。

 

しかし、彼らは、さらに続ける。

もしそうでなくても、たとえ死んでも、私たちは、神を信じ続ける。

すばらしい信仰です。

旧約時代の素晴らしい信仰です。

イエスが、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」と同じである。

私達は、新約の時代にあり、イエスによって、死が克服され、新生しているのも関わらず、この世の死を恐れていないだろうか。

この世的な脅し、人間への恐れを抱いていないだろうか。

さらに誘惑に負けていないだろうか。

人間は極めて危うい。

わかりやすい事例が、戦争時におけるキリスト教関係者の国への迎合だろう。

私達は、ゆさぶりに会う。

聖書を熟知しているか、いないかは関係ない。

本番で、信仰の有無が試されるのでしょう。

 

そういう意味で、旧約の彼らの信仰はすばらしい。

学ばなければならない。

反省しなければならない。

そのためにも、私たちは、日ごろの小さな積み重ねが、神の御心に沿った生き方が大事なのでしょう。

旧約から学ぶことは多い。

同じく旧約での日常的な信仰的な生き方は、とても参考になります。

ミカ6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

 

ブログを読んでいただき感謝いたします。

クリックの応援をいただくと、とても励まされ感謝です。

にほんブログ