エゼキエル書の前半を通読していて、感じるのは、徹底した神の義である。

神の義の思いの決意。

5:5 神である主はこう仰せられる。「これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民の真中に置き、その回りを国々で取り囲ませた。

5:6 エルサレムは諸国の民よりも悪事を働いて、わたしの定めに逆らい、その回りの国々よりもわたしのおきてに逆らった。実に、エルサレムは、わたしの定めをないがしろにし、わたしのおきてに従って歩まなかった。」

5:7 それゆえ、神である主はこう仰せられる。「あなたがたは、あなたがたの回りの諸国の民よりも狂暴で、わたしのおきてに従って歩まず、わたしの定めを行なわず、それどころか、あなたがたの回りの諸国の民の定めさえ行なわなかった。」

5:8 それゆえ、神である主はこう仰せられる。「今、わたしもあなたを攻め、諸国の民の目の前で、あなたにさばきを下す。

5:9 あなたのしたすべての忌みきらうべきことのために、今までしたこともなく、これからもしないようなことを、あなたのうちで行なう。

5:10 それで、あなたのうちの父たちは自分の子どもを食べ、子どもたちは、自分の父を食べるようになる。わたしは、あなたにさばきを下し、あなたのうちの残りの者をすべて四方に散らす。

5:11 それゆえ、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――あなたはあなたのすべての忌むべきものと、すべての忌みきらうべきことで、わたしの聖所を汚したので、わたしはあなたを取り去り、わたしはあなたを惜しまず、また、あわれまない。

5:12 あなたの三分の一はあなたのうちで疫病で死ぬか、あるいは、ききんで滅び、三分の一はあなたの回りで剣に倒れ、残りの三分の一を、わたしは四方に散らし、剣を抜いて彼らのあとを追う。

5:13 わたしの怒りが全うされると、わたしは彼らに対するわたしの憤りを静めて満足する。わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、主であるわたしが熱心に語ったことを知ろう

 

是々非々(ぜぜひひ)という表現があります。

物事の善悪を客観的に決めること・正しいことは正しい、悪いことは悪い、と公式に判断することを表します。

神の義とは、まさにそのようなわかりやすさと厳しさがあります。

つまり、神を士師、その命令を守るものには、契約を守り恵みをほどこす。

一方、神に逆らうものは、死と滅びの刑罰をもって臨む。

そのため、私たちは、絶対に神に連なっている必要がある。

葡萄の木の例えにあるように、私たちは、その木にぶら下がっていなければならない。

しがみついていなければならない。

その木から離れる時、大変なことになる。

聖書に書いてある通りです。

 

さらにもう一つの大切な原則があります。

神は、信仰者に、悪の道に歩むものに、傍観せず、警告を与えよということです。

ということです。

エゼキエルは命じられる。

3:17 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

3:18 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

 

これも、忘れてはならない神の原則です。

人は、助かるか、滅びるかのいずれかです。

私たち信者は、見張り人としての責任があります。

私たちは、滅びの道に進もうとしている人に、警告する必要があります。

神の願いは、すべての人が悔い改めて、滅びないことです。

そのための役割が、私たち信者に与えられているのでしょう。

それは、私たちが「キリストの証人」であることです。

 

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