イエスは、律法を破棄するためではなく、成就するために来たとおっしゃった。
イエスの教えは、律法をさらに踏み込んだ深いものがある。
それに、当時の民も驚嘆する。
しかも権威あるもののように語られる。
その教えを聞いて、素直に、イエスを神と信じた者は幸いな人たちだったでしょう。
今日の私たちは、聖書を通じて、イエスの御心を探る。
私も1年間近く、聖書と向き合って、やっと、イエスを神と信じることができた。
私たちは、イスラエルの民と同じく、習慣上、行為にとらわれている。
行いに応じて、それが悪いものであるならば、罰せられる必要があることは理解している。
それは、規則やルールへの抵触(ていしょく)であったり、さらには、道義的責任の問題であったりする。
しかし、イエスの場合、外面的に現れたことではなく、私たちのこころの有り様に関心を注ぐ。
私たちのこころしか見ていないといってもよい。
そこをついてくる。
それを問題提起する。
そして、その指摘はいつも必ず正しい。
耳の痛いことも多いが、反論しようがない。
正しく、かつそこに愛があるからだ。
つまり、イエスは、完全な愛のお方であることを知る。
そのお方を信じないということは、おかしいことになる。
信じざるをえなくなる。
自らが求道していながら、その完璧な愛の有り様につまずくということは、求道ではなく、自己愛を優先していることになる。
イエスのおっしゃることは、私たちのこころに「神への愛、隣人への愛」があるのかに尽きる。
それが、私たちの行動原理である。
そういう意味で、とてもシンプル。
しかし、その完成に向けては、一歩一歩。
内住される聖霊様と、いつも、ともにおられるイエス様に心をゆだねながら。
今の私の考えや行いに「そこに愛があるか」を確認しながらの毎日なのでしょう。
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