わたしは、今、障がい者事業所ホープの運営の働きと、4月から始めたホープ札幌教会の牧師としての働きが、二つの神から与えられた仕事ととなっています。
さらにいうと、神から命じられている召しは、おそらく障がい者に神の栄光が現れることだという確信が、強まってきています。
ヨハネ書にこう書かれています。
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
わたしは、障がい者とのふれあいの中で、この聖句をマークし考え続けてきました。
当然のごとく、障がいの要因は、本人や両親に起因しない。
そして、その読み方が深まっていました。
神は、多くの多用な人をお創りになります。
肉体的にも精神的にも多様です。
人間は、一つの一般的な標準を設け、それから逸脱する例外的現象を、時に障がい者などでくくり、分類する傾向がある。
私たちもその分類に慣れてしまっている。
そして、障害を不幸なこと、残念なことと考える傾向がある。
標準からは、外れるために。
社会の偏見が生まれる。
その影響を受ける。
しかし、これらの人間の思考は、大きな思い違いで、神の視点からは、とんでもない思い違いといわざるを得ないだろう。
創造主である神の、人に対する創造の思いは、違っている。
またある方は、大なり小なり、サポートしたいと考える。
神がお創りになった方々が、この世の状況で、不便や悩んでいる場合、その状態をサポートすることは、神が求めることである。
聖書で一貫しているテーマである。
隣人を自分自身を愛するように愛情を注げるかは、私たちの事業所ホープのスタッフの課題でもある。
一方で、最近思いが強くなってきているのは、神の大きな目的は、神の技が現れるため、神の栄光が現れるために、人は造られているということ。
たましいの救いがそれである。神を知るということ。
私たちの仲間が、神を知る。
そして、救われ洗礼を受ける。
9月14日にも4名がバプテスマを受ける。
お話をしていると、彼らが過去、とても苦しんでいたこと、この世であてもなく、悩んでいたことがわかる。
そのことを、私も付き合いの中でその過程を知っている。
この世での苦労が多い分だけ、神への距離が結果的に近いのかもしれない。
神にとって、神を求める心が人としての標準であって、求めない心は標準外である。
人間の尺度とは違う。
その彼らが、神を知ることにより、人生が逆転する。
大いなる希望を知る。
人生の目的を知る。
自分が神から愛されていることを知る。
これは、どんなことよりも素晴らしいことで、こころの平安をえる。
そのことが、私も自分のことのようにうれしい。
また、日常のふれあいの中で、神の思いを私たちは知らされる。
つまりこれらの事が、神の栄光が現れることだ。
その輪を広げていくこと、神の栄光が現れていくこと、それこそが、神が求めることなのだろう。
神にとっては、神を求める心が、標準であって、その心を持とうとしない固い常識人が標準外になる。
人生の価値観が逆転する。
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