神の御性質にあわれみがあります。

あわれみは、御性質の中心にあり最高位のものでしょう。

それゆえに、神は、私たちに「あわれみ深くあれ」とおっしゃる。

キリストの御霊が住まわれている限り、それに支配されている限り、わたし達は、神のあわれみの御性質が、にじみ出てくるはずなのでしょう。

つまり、「あわれみ深くありなさい」と言われているので、自分を律して、そのように務めるべきであると言うことではない。

そうではなく、キリストに支配されたわたし達の霊性が、おのずと哀れみ深く、現れているはずだ、ということなのでしょう。

従って、わたし達は、神に似たものになっている、つまりあわれみ深い性質になっているか、どれだけ根づいているか、その内面を、公表しながら生きているといえる。

 

あわれみは、他人の悲しみや苦しみに内的同情心と外的行動を伴うものだと、聖書を通じて教えられる。

あわれみ深い性質の現れの最高の教えとして「よきサマリア人の例え」がある。

通り過ぎた祭司達も瀕死の状態に合った人に同情心を抱いたのかもしれないが、自分の域から一歩も出ることができなかった。

しかしサマリア人は、かわいそうに思い、実際に骨折りする。

これが、あわれみだろう。

そのようにしなさいと、イエスは、私たちにおっしゃる。

わたし(イエス)の性質を内に抱いているなら、そうなるはずだとおっしゃっているようだ。

 

神のあわれみの最高峰は、神の一人子を、この世に使わせてくださったことに、現れている。

わたし達のあわれな状況、苦しみを見る。

罪の結果としての悲惨な状況にある人間をあわれんでくださった。

かわいそうに思い、行動を起こしてくださった。

そこに、神のあわれみを知る。

私たちをあわれんでくださる神を賛美しましょう。

 

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