ルカ4:17でイエスはこう語る。

4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。

4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、

4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」

 

この箇所は、ヨベルの年のことをさす。

そのことが、今、まさに実現していると。

ヨベルの年は、レビ記25章に書かれている神との取り決めである。

7年毎の安息の年の7たびは、49年になるが、その時、角笛を鳴り響かせよと命じる。

そして、よく50年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。

負債の取り消し、イスラエル奴隷は解放、売却した土地は戻ってくる、そして、その年は安息年なので、種をまいてはならないし収穫してもいけない。2年連続の安息。

 

イエスが、自分が天からきた理由を、ヨベルの年を例えてお話なさる。

つまり、神は、すべてのものは、わたしのものであるという原則をお示しになる。

あなたのものではない。

神の土地、収穫物をすべての住民に分かち合うことを、お命じになる。

公平性、平等性を重んじられる。

富の偏在があってはならない。

神は、この世に縛られている私達、困っている私たちを解放してくださる。

神は、そういうお方なのだ。

貧困者の味方、困って悩んで、虐げられている者の味方。

 

さて、問題は、私達の側にある。

ヨベルの年が、守られたかどうかは、聖書には書かれていない。

厳しい命令である。

困窮者には、ありがたいことだったが、はたして守られたかどうか。

土地や奴隷を所有している人は、手放さなければならない。

48年目には、3年分の収穫を与えると神は約束しているわけだが、それに信頼しきれただろうか。

「何を食べるか、思いわずらうな。」とイエスは、おっしゃる。

まず、神の国の義を求めよと命じる。

もちろん、神の命令は、べき論ではない。

命令に従った場合の生活の保証もしてくれている。

しかし、わたし達は心配する。

神の約束より、自分の都合を優先させる。

神からの命令や約束の「いいとこ取り」をする。

困ったものである。

 

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