信仰義認と行為義認。

パウロが、ガラテヤ書およびローマ書で、必死になって伝えるのは、信仰義認です。

「イエス様を信じることで救われる。神の前で義と認められる。」と言うことです。

しかし、クリスチャンの中にも、教会の中でも、これだけでは不十分という考え方が、ある場合がある。

つまり、行為や努力が、救いの第2条件として必要だという考え方である。

教会に通い続けなければならない、十一献金を確実にしなければならない、奉仕をまじめにしなければならない、聖書を毎日読まなければならない・・・・・・。

これを言われ続けると、疲れてくる場合がある。

しかし、それをしなければ、自分が、家族が、天国にいけないかもしれない・・・。

そのように、暗に教育されている場合があるかもしれない。

こうなってくると、キリスト以前の律法主義と変わらなくなってしまう。

努力信仰になってしまう。

本来、信仰生活には、喜びや感謝や主体性が伴なわなければ変だ。

もしも、そのような雰囲気があるとするのならば、その教会や牧師は、キリストの為ではなく、自己の為に運営している可能性すらある。

あるいは、自分自身が行為義認を信じ込んでいるか。

他の宗教と大同小異かもしれない。

救いの条件は、信仰義認だけで、プラスαは、まったく無いと、確信しよう。

そのように聖書に書いてあるのだから。

信仰義認を、本当に知ったのならば、行為は、おのずと、主体的に、喜びをもって、伴ってくるものである。

聖書を読みたくなるし、神を愛し、隣人愛を行ないたくなる。

ヤコブ書で、書かれている通りです。

 

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