エレミヤ書に、バルクという人がいる。
エレミヤとともに歩まれ、立派な方だと思われる。
その彼へ神の言葉が与えられる。
45:2 「バルクよ。イスラエルの神、主は、あなたについてこう仰せられる。
45:3 あなたは言った。『ああ、哀れなこの私。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、いこいもない。』
45:4 あなたが主にこう言うので、主はこう仰せられる。『見よ。わたしは自分が建てた物を自分でこわし、わたしが植えた物を自分で引き抜く。この全土をそうする。
45:5 あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下すからだ。――主の御告げ。――しかし、わたしは、あなたの行くどんな所ででも、あなたのいのちを分捕り物としてあなたに与える。』」
バルクは、自己憐憫状態になっていた。
私は、哀れだ。
こんなに一生懸命、神の為、民の為に働いているのに、神は、私のことを評価してくれない。
民も同じで、私は攻撃され非難されるばかりだ。
神は、私に報いてくれないばかりか、悲しみまで与えられた。
私は、心身ともに疲れ果ててしまった。
こんな感じだと思う。
当時の状況は、それだけ大変で、まさに四面楚歌であっただろう。
エレミヤも矢面に立ち、大変だったが、バルクは「エレミヤは、直接、神からの役割と言葉をいただいている。うらやしい。自分は、脇役で日の当たらない、つらいばかりの仕事。評価もされていない。」と思ったのかもしれない。
しかし、神の視点は違っていた。
神は、彼が充分がんばっていることを知り、評価されている。
しかし、あなたは、自分の評価や価値にとらわれすぎだ。
わたし(神)の為というよりは、自分のことを考えすぎだ。
だから、そうであってはいけないと彼をいさめる。
と同時に、わたし(神)は、あなたをよく覚えている。わたしは、あなたを召している。
あなたを決して困らせないという。
何と感謝なことか。
バルクは、自己愛偏重を反省し、神への愛、従順を深めていったことだろう。
わたしたちも、成果が出ないときに、神は、私のことを覚えてくださっているのだろうかと思うことはあるだろう。
しかし決して、過度の自己愛、自己憐憫に陥ってはいけないと思う。
新約の今、クリスチャンに自己憐憫は、ふさわしくない。
聖書的ではない。
常時、ともにおられる神が、不在になっている。
「そうだ。イエスはいつもともにおられる。聖霊様は、わたしの心に中に内住されておられる」と言い聞かせよう。聖書にそう書いてあるからだ。
そう宣言しよう。
そして、神には神のご計画があり、わたしたちに最善のご計画があると、信じよう。
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