自分自身は、本当に強敵である。

私の本「死ぬまでに必ず聖書を読んでおく必要性」の冒頭に次のように書いた気持ちは、変わりません。

「私は、クリスチャンの使命・責任は、概ね三つあると思っている。

一つ目は、良きクリスチャンになることである。クリスチャンになって、しばらくたってくると、一番の敵は、自分自身であることに気づく。人間なるものは、油断すると自分が中心に返り咲こうとする。自分の心の中に、自分自身を中心においているのか、主たるイエス・キリストをおいているのか。自分の生来の魂は、自分が思っている以上にはるかに強く心に根付いている。なかなかのクリスチャンと思いはじめた時こそ、危険かもしれない。とても厄介である。生来の性質を枝払いし、さらには幹も削りながら、イエス・キリストに、より近い者になっていく事が、一生の課題となる。・・・」

神様から促がされ、あることを始める。

ミッションかもしれない。

あるいは、小さなことかもしれない。

それが、うまくいっている時、「祝福されている。」と思う。

そうかもしれない。

しかし、その内に、結果を求めるようになる。

更なる祝福を求めるようになる。

そうなってくると、自分を求めていることにならないか。

神を求めていない。

「そんなことはない。神の御心で、神が望まれていることだ。」と思いたくなるだろうが、謙虚に考える必要があるだろう。

神の御心であるのなら、うまくいこうが、あまりうまくいかなくても、忠実に、ただ、ひたすら行なえば良いのだ。

いつか花が咲くだろう。

あるいは、あなたではなく、あなたを介在して、他者に咲くのかもしれない。

次の時代に実を結ぶのかもしれない。

つまり、神の栄光が現れればよいのだから、一喜一憂せずに、ただひたすら忠実に行ない続ければよい。

それを喜びとして感謝しながら行なう。

だからうまくいかなくても、落ち込む必要はない。

それは、神が行なっていること、神のご計画なのだから。

どのように使われるか、結果がどうなるかは、神の範疇。

あまりに落胆するということは、「自分の為に、行なっている」からではないだろうか。

このように、私たちは、「神の御心を求め、御心を行なう」が、基本中の基本だと知っていながら、知らず知らずに、自己中心の心、欲が芽生えてくる。

そして、自分の為に神を利用することになる。

それだけ、自分自身は、強敵である。

気をつけよう。

 

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