パウロは、以前は学問に秀でた、とても優秀なパリサイ人であった。

その彼が、過去の自分をこのように表現する。

ピリピ3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

 

彼の過去培った博識を、ちりあくたとみなしている。

しかも、彼の内面について、このように表現している。

テトス3:3  私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。

3:4 しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、

3:5 神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

3:6 神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。

3:7 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。

 

自分も含めた私たちもという言い方で、パウロは語っている。

相当にひどい。

私は、自分の事を考えた場合、これほどまでに、ひどい者ではないだろうと、当初聖書を読んだとき、思っていたが、改めて今考えてみると、このような表現にふさわしい者だったと思う。

一見、善意の中でふるまっているようで、内面は、そのような者だったのだろう。

つまり、キリストを知る以前は、私達の知識や学問は、ちりあくたであり、私達の内面の性質は、とても罪深いものだったと認めざるをえない。

それは、キリスト後に、はっきりとわかる。

逆にキリストを知らない状態では、自分は、それなりの知識体系を持ち、良識を備えた人間と思っているところがある。

よくビフォー、アフターという言い方がある。

キリストを知る前とキリストを知った後の状態は、何と違うことか。

それはキリストを知って始めて、キリストを知る前のひどさを知る。

まさに。コペルニクス的転換。

真理を知って、本当に神に感謝なことです。

 

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