私は、毎日の生活を、障がい者や難病の方と過ごしている。

障がい者は、手帳を持っている人に関わらず、手帳は取得していないが、精神的疾患があるものとして、医者からの診断を受けている方を含む。精神は、いろいろな症状があり、また、同じ病気の診断があったにしても、個人差は大きい。

皆さんは、社会参画を望み、事業所ホープに、働きに来ているわけだが、彼らの症状は、日本社会の病根も一因があると思っている。

まずは、日本の同質性を志向する民族性、政治である。

個々の事情、個性があまり尊重されない。

いわゆる普通の国民をモデルにした、国の設計がなされている。

その土俵に乗り切れない人は、阻害される。はじかれる。別のくくりの中で、処置される。

「一億総活躍社会」などという、お坊ちゃま育ちの首相が考えそうな施策すら、まだ生まれてくる。

カジノ法案といった、私にはとても信じがたい不健康で病的な法が、論議されている。

会社の中で、長時間忙しく、そして死ぬ間際まで働き続けることは、人間にとてもストレスを与え、さらには、少ない余暇でさえ不健全な遊びを誘発していては、人間の尊厳そして、何のために生まれてきたかという思いさえ、打ち消される。

そういう中で、会社で挫折し、精神を病み、当方に通われている方をよく知っている。

問題は、個人のほうにはなく、社会の方にあると私は思っている。

包摂社会、共生社会とは、掛け声ばかりの段階で、残念ながら日本では、長く続いていた隔離政策からいまだに抜け切れていないのだ。

それは、データとしても明らかで、ブログのなかでも、書いてあるので、ご覧いただきたい。

著書36:精神障がい者と日本の病院の現状

 

障がい者を、異質なものとしてみる傾向が、国民の中には多い。

だから、教会においても、同じようなことがいえるのだろう。

拒みはしないが、グループの中へは、入りづらい。

そんな雰囲気を感じる。

あるいは、おおめに見てもらっている立場に感じる。

もちろん、教会はイエスが立ち上げたところであり、イエスをかしらとしており、どうであれ、極めて尊重すべきところであるのだが、

極めて人間的なところでもある。

すばらしいところであるが、問題も抱えている。

つまり、未完成のところなのだ。

教会も人間社会の典型であり、ヤコブやパウロ等、聖書にも何度も警告されているように、誤解を怖れずにいえば、とてもわがまま集団に感じる時さえする。

つまり、自分の幸せさえ保証され、自分達の場さえ確保されていれば良し、という集団。

もちろん、キリストに似たものになろうとする集団ではあり、良さは多くあるものの人間集団としての限界がある。

だから、異質に見える障がい者が居場所を保つには、とても難しい。

私たちは、どうしようもない罪深い、何の価値もない、誇るところのない人である。

なのに、クリスチャンになって、何か自分は特別な人と思い始める、高ぶりはじめる。

残念ながら、私にもある。

だから、よくよく注意しよう。謙虚になろう。

そもそもの私たちの素性を思い出そう。

そうなれば、よい社会は、この地に天国は、可能なのだ。

しかし、残念ながら、この世では、現実とても難しいだろう。

身体障害者は、見た目からわかりやすく、相互理解は何とか得られやすいだろうが、特に、精神障がいについては、難しい。偏見がある。

一方、他者や教会を批判的に眺めているばかりでは、何も状況は変わらない

そんなこともあり、私の役割と責任として、彼らの救いおよびその後のフォローの道を、具体的に模索していこうと考えたわけです。

 

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