初志貫徹という言葉がある。
一見キリスト教には、なじまない言葉のようだが、私にとって、「そうだな」と、思ったことがある。
私は、そもそも、神を否定してタイプだったが、哲学的思考そして仏教的考え方さらには、日本人にはなじみやすいアニミズム思考と変遷をたどった末に、神研究を思い立ち、55歳で聖書を読み始める。
最初は好奇心からだったが、引きつけられて、格闘すること約1年弱、クリスチャンになる。
最後は、否定していた神、特にイエス・キリストに出会ってからは、彼を否定できなくなり、とうとう観念する。
「よくわかりました。あなたは間違いなく神です。あなたに、完全にギブアップします。」となった。
完全な敗北宣言。高ぶっていた自分の間違いに気づき、彼に従う。
そして、イエスの傘下に入ったことを自覚する。
これが、初志である。
しかしその後は、毎日聖書を読みながら、クリスチャンらしくもなってきたが、自分自身がもたげてくる場合がある。
1コリントに、こう書かれている。
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
まさに、そうであって、とても大事な基本が書かれている。
私のあらゆる権利を放棄し、キリストの絶対主権にゆだねたはずの私。
完全にギブアップしたはずの私であり、イエスの支配下に入っていることを、忘れていないか。
その厳然たる事実が、希薄になっていないか。
私は、与えられた召しにふさわしい歩みをして、神の栄光を現わしていく必要があるのではないか。
救われた初志から、はずれてはいけない。初志貫徹である。
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