聖書の学び会を新たなメンバー3名で、始めた。
あせらずに、一歩一歩信仰への扉に向けて、進むことを願っている。
今、朝のデボーションが、新約では、ガラテヤ人への手紙に、入ったところで、なるほど、ちょうどいいなと思ったことがある。
学びで、繰り返し重要になるのは、イエスは何者か、私たちの人生と、どういう関わりがあるのか、ということである。
その一つの結論が、早速1章4節にかかれてある。
「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」
この一節で、キリストがなぜこの世に来られた目的かがわかる。
つまり、私たちを救うために来られた。
早速、まだ、キリストをはっきりと信じていない方からは、疑問はでてくる。
私が、信者になる前に感じたことでもある。
以下、まだ信じていない段階での問答形式で書いてみる。
「つまり、私たちは、救われなくてはならないような存在、有り様なのか、と言う疑問。
それに対しては、罪があるから、と書いてある。
確かに、罪を犯すこともあるし、良からぬ行いもすることもあるが、それほど悪いことなのだろうか。私より、悪い人間は多くおり、私はまだ、まともな方だと思っているが。・・・
しかし、神は、ご自身の罪のためではなく、私たちの罪のために、わざわざ、この地球におりたたれ、救い出そうとして自分を捨てられたとある。
身代わりに死なれたということである。
なにか、尋常なことではない。
それほど、私たちの罪は重大な問題なのか。
さらに、こう書かれている。
イエスが来たのは、イエスの父のみこころによって来た、つまり、父なる神の指令ということなんだ。
さらにいうと、イエスの父という表現ではなく、私たちの神であり父である方と書いてある。
その神とは、どなただろう。・・・」
等と、この節は、とても重要なキーポイントが書かれてある。
第一回目の学び会は、「聖書とは・・・」から始めた。
次回は、天地創造を聖書にそって、読んでいこうと思っていたが、この一節をお話してから進むのも、よいのかもしれない。
つまり、神の全体計画、つまりアダムとエバの罪によって始まった神との調和の崩壊、そしてその調和の回復のご計画、イエスの役割の全体構造がわかりやすいかもしれない。
聖書は、すべてのベクトルがイエス・キリストをさしている。
人間に罪が介入すると同時に、この世を救うメシア、つまりイエスのご計画が早速、聖書に登場する。
なんと、神はありがたい賛美すべきお方か。感謝です。
このブログを読んでいただき感謝いたします。
一日一回クリックの応援をいただくと、とても励まされ感謝です。