ダビデの大罪と私。

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あの偉大なダビデも、大きな罪を犯す。人妻バテ・シェバに欲情を抱き、その夫ウリヤを殺し、自分の妻とした。十戒の内、三つの罪、殺人、姦淫、貪りを犯したとされる。

私は、ダビデは良いことも多くしたが、結局は、とんでもない男との評価を当初は抱いていた。

とんでもない大罪を犯したという認識は、今も変わらないが、とらえ方は変わってきている。

つまり、人間は罪深い属性を持っているという意味で、自分にも、当然のことながらその要素が、充分にあるということである。つまり、私と何も変わらない、たまたま、そういう状況が襲ってこなかっただけなのかもしれない。

ダビデは、部下を戦いに出し、自分は王宮でくつろいでいたのだろう。そういう、慢心、気の緩みの時、サタンは忍び寄ってくる。ガードが甘かったのだろう。強い誘惑にはまったのだろう。自分の本能がうずいてくる。私達もダビデのように陥らないのは、私たちが立派で強いからではなく、強い誘惑に遭遇しなかったからだと、考えるべきだろう。

それだけ、誘惑のわなは、強力だった。そして、大罪を犯す。

そんなダビデに対して神はこう、仰せられる。

2サムエル12:9 それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。

 

私が、興味深いのは、神は、あなたは殺人等とんでもないことを犯したと責める前に、「主のことばをさげすみ」という御言葉があるということだ。

人間的には、とんでもないことをしたが、まず最初に来るが、神の視点では、私の言葉をさげすんでいた、つまり神を中心においていないことを第一義的に責められる。

悪いことをしたから、責めるのではなく、悪いことをしてはいけないと、私(神)が命じていたにも係わらず、その私の命令を軽んじていたのを責める。まさに、そうなのだろう。

私達は、御言葉を心にため込んで、しみつかせておく必要がある。サターンは、虎視眈々と私達の油断、すきをついてくる。あるいは、自分自身という強敵が、本能をもたげてくるのかもしれない。

本当に、日ごろの心の備えが必要だ。その点では、ダビデにはいなかった聖霊様が、私達に内住されておられるのは、何とありがたいことか。助けられていることか。

その違いは、圧倒的に大きい。聖霊様が、私達に注意喚起し、成長させ高めてくださる。

誘惑や試みも多いだろうが、聖霊様を悲しませることなく、聖霊様の働きを内に感じながら、生きていきたいものです。

 

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